今年、球団創設から90周年を迎えた巨人ゆかりの地を訪ねる企画「G九十年 あの場所は今」。第1回は、千葉・習志野市の谷津遊園野球場(谷津球場)跡を紹介する。1934年にベーブ・ルースらのメジャーリーグ選抜が日米野球で来日した際、迎え撃つために結成された全日本選抜の合宿・練習場所。このチームがのちに大日本東京野球倶楽部、東京巨人軍へと発展したことから、同所は「読売巨人軍発祥の地」と呼ばれる。今はバラ園となっている巨人の原点。在りし日の谷津球場を、証言を交えて紐解いた。(樋口 智城)
全日本選抜チームは、当初から「プロ野球チーム創設」を目指して結成された。谷津球場はプロ化を見越した「球団の本拠地」として新しく作られた球場。34年8月に開場した。
当初、本拠地は東京・小石川の砲兵工場跡に作る予定だった。だが、時は学生野球全盛。職業野球に理解者はおらず、資金難のため計画は放棄された。そこで読売新聞の正力松太郎社長が、旧知の京成電鉄・後藤國彦社長に代わりとなる球場の設立を依頼。京成は当時、谷津遊園をレジャーランド化して観光客による鉄道利益確保を目指しており、一環として遊園内に球場を作ることが決まった。
全米軍招へいに尽力した鈴木惣太郎氏の著書「日本プロ野球外史」(ベースボールマガジン社)によると、当時の全日本選抜チームは「プロ化したあと、年に1度の米国選抜との対抗戦という形で日本全国で興行する」ことを想定していたという。谷津球場に外野スタンドがないのは「試合のための本拠地」でなく「練習場としての本拠地」という要素が強かったためだ。
34年の日米野球による野球熱の高まりで、職業野球の価値も見直されるようになった。16戦全敗という実力差から、日米対抗戦も不可能と判断。国内のリーグ設立へ機運が高まり、チームもリーグの一球団「東京巨人軍」への道を歩む。
「砲兵工場跡」には、37年に「試合ができる本格球場」として後楽園球場が建てられた。谷津球場は「巨人の本拠地」としての機能を喪失。その後は市民の憩いの場へと変わり、66年にその役目を終えた。くしくも巨人は、その前年の65年から9年連続日本一の快進撃を始めた時期だった。