1980年代前半に初代タイガーマスクと激闘を展開し“虎ハンター”と呼ばれた小林邦昭氏(64)が2000年4月21日に引退してから今年で20年となった。1972年10月に旗揚げ間もない新日本プロレスに入門。タイガーマスクとの抗争、全日本プロレスでは三沢光晴の2代目タイガーマスクと対戦、さらに平成に入ってからは新日マットで反選手会同盟、平成維震軍で活躍した。WEB報知では、「“虎ハンター”小林邦昭ヒストリー」と題し、記憶に残る名選手のレスラー人生を辿る連載を展開する。第20回は「1985年、全日本プロレス参戦。評価した選手は…」(福留 崇広)
1985年1月2日、小林邦昭は、全日本プロレスの「85激突!オールスターウォーズ」開幕戦の後楽園ホールのリングに上がった。試合は、永源遙と組んでマイティ井上、渕正信と対戦し、小林が渕を破り、新天地での初勝利をあげた。全日本マットの印象はどうだったのか。
「全日本は、当時、インタビューか試合後のコメントかなんかで“動きが遅い”というか、向こうをこき下ろすようなこと言った覚えがあります。“俺たちの試合は、ピストルだけど向こうの連中はまるっきり刀だ”みたいな、物足りないみたいなニュアンスで言ったんですけど、それは本音でした。全日本は、あまり動かないオーソドックスなスタイルですけど僕たちはハイスパートレスリングで休みなく次から次へ動くのが維新軍の持ち味でしたから、その動きをそのまま持って全日本へ行ったんです。最初は、動きが遅くてやりずらかったんですが、向こうの動きを維新軍の色に染めて同化させようとしました。事実、時間が経つにつれ、全日本の動きも変わっていきました」
思い出の試合は、85年6月5日、覆面レスラー「マジック・ドラゴン」との負けた方が覆面を脱ぐか髪の毛を丸める日本初の「カベジェラ・コントラ・マスカラ」をあげた。試合は小林が勝利しドラゴンは、覆面を脱ぎ「ハル薗田」となった。薗田は87年11月28日に新婚旅行を兼ねた南アフリカへの遠征中での飛行機事故で夫婦共に犠牲となり31歳の若さで亡くなった。
「亡くなった薗田と覆面と髪の毛をかけてやった試合とかいい試合だったと思いますよ。薗田はいい選手でした。あの若さで亡くなったのが本当に残念ですし、惜しまれます」
そして、新日本時代には分からなかったが実際に対戦したことで評価した選手がいた。
「渕(正信)さんはよかったですよ。やってみて、“この選手は、こんなに凄い選手なんだ”って思いました。何しろ、試合の先を読む力にたけていました。ある意味、全日本の中で一番、うまい選手でした。当時、渕さんは、中堅どころで試合をしていましたが、僕から見れば。ああいうところで試合をする人間じゃなかった。ジャンボ(鶴田)とタッグを組んでメインを張ってもおかしくないぐらいの選手だったと思います。ただ、肝心の本人は、欲がなさそうでしたね。あれで欲があったらトップを取っていたと思います」
薗田、渕…リング内では実力者の存在を認める一方でリング外では初めて出会ったジャイアント馬場の大きさを感じた。
「馬場さんは、大きく包んでくれるような、オヤジとかお袋とかそういう感じの方でした。新日本を離脱して、契約違反で裁判になった時に“よし、俺に任しておけ”ってたった一言おっしゃってくれたんです。その言葉ひとつでいろんな悩みが解決しちゃうという感じに思わせてくれるすごい人でしたね。常にドンと構えていて、猪木さんとはまた違う部分でした。どんと構えている。ただ、猪木さんとはレスリングに対しての考え方が違いました。馬場さんは明るく楽しく激しくという感じでしたが、そういうのは猪木さんにはないんです。常に激しくで楽しいなんて頭にありませんから。僕にとってのプロレスは、猪木さんの考えの方がプロレスなんだと思っています。馬場さんは、王道と呼ばれていますけど、それは、マスコミとかファンが作ったものでプロレスに関しての考え方は猪木さんがすごいと思ってます。いまだにああいう人は出て来ないし、これからも出て来ないでしょう」
全日本参戦で新しい好敵手に出会う。それが、2代目タイガーマスクだった。(続く。敬称略)