「スポーツ報知」(報知新聞)は、昨年が創刊150周年でした。日本の新聞史の興味から大学院に通ったりする中で、自分の働く新聞社がなぜこれほど長い年月続いてきたのかを考えるようになりました。新聞社というところは、明日出す紙面にはエネルギーを費やしても、時間をかけて過去の新聞を振り返ることをあまりしません。しかし、会社が生まれて、どんな道を歩んできたのかを把握することは、“親”や“先祖”を理解することだと思うのです。
「報知」の歴史を語る上で、1923年9月1日に発生して100年になる関東大震災を避けることはできません。特筆すべき内容はいくつかあるのですが、ここでは発生当日に絞って書きます。在京新聞社は壊滅状態に陥り、奇跡的に被災を免れたのが、有楽町駅前にあった「報知」と、「東京日日」(現毎日新聞)、「都」(現東京新聞)の3社だけでした。「報知」の120年社史「世紀を超えて」(93年発行)には、「本社の社屋は、初めから耐震、耐火を十分計算した近代ビルだけに、建物はほとんど無事だった」(213ページ)とあります。
社内がどんな様子だったかは、当時の社会部長で戦後、政治評論家として知られた御手洗辰雄氏(1975年没、享年80)の「新聞太平記」(鱒書房、52年発行)に生々しくつづられています。そして地震発生(午前11時58分)の約1時間半後には号外が完成していた、と出てきます。インターネットはおろか、ラジオもテレビもまだない時代。新聞が情報の頼みの綱でした。この号外が、地震の発生を最初に伝えた新聞とみられます。
御手洗氏は「新聞太平記」にこう書いています。「瞬間、天井の大電燈が揺れて円柱にぶつかり、木っ端微塵に砕け散った。(略)万一に備えて地下室に号外を出せるだけの活字が寝かせてあることが分かった。(略)一時半頃には自動車で市中の要所に張り出させた。(略)原始的だが人力の限りを尽くして速報に努力した」(48、49ページ)。
停電して輪転機が使えないため、手刷りで作られた号外は箇条書き。震源、余震の心配の有無、国の食料の備蓄状況、皇族の安否などが書かれたそうです。いち早く報じなければ、という思いもさることながら、情報不足での人々の不安を、少しでも緩和することが大きな目的でした。
いま「ニュースパーク 日本新聞博物館」(横浜市)では、企画展「そのとき新聞は、記者は、情報は―関東大震災100年」(12月24日まで)が開催されています。
企画展では、ひとつの根本的な疑問を記事や証言を通して投げかけます。なぜ記者たちは命がけで被災地に入り、取材を続けたのか…。「本能」がそうさせたのだろう、と結論づけていました。会場の展示物を見て感じたのは「本能」というより、「使命感」の方が強いのではないか、と感じました。
時代は違いますが、記者は91年に「報知」の大阪本社で記者になりました。95年の阪神大震災のときは、巨大な火柱のように燃えさかる被災地に言葉を失い、虚無感に襲われました。まだ携帯電話も完全に普及しておらず、公衆電話を探してデスクに被災地の様子を伝えたこともありました。激震を味わった恐怖感を抱えながらの取材を、いまもはっきり思い出すことができます。
関東大震災から100年。阪神大震災から28年。この28年間だけでも情報の量も伝達の速さも、メディアの世界はすっかり様変わりしました。しかし、1世紀前に自分の会社の先輩たちが一刻も早く情報を届けようとした純粋な気概。これからも折りに触れて思い出しながら、新聞記者にできる仕事を細々と続けていこうと思います。(内野 小百美)