クミコ、「ずっと嫌だった」シャンソン歌手…99年に作詞家・松本隆さんに出会い運命が開いた

スポーツ報知
「歌は腐れ縁の男みたいだったけど、最近いいヤツだと思えるようになった」と笑うクミコ(カメラ・小林 泰斗)

 歌手のクミコ(68)が、東京・銀座にあったシャンソン喫茶「銀巴里」で歌われた名曲をカバーしたシングル「時は過ぎてゆく/ヨイトマケの唄」を発売した。自身も銀巴里でプロの歌手としてのキャリアをスタートさせてから41年。2010年にはNHK紅白歌合戦にも出場するなど、日本のシャンソン界に確かな足跡を残してきたが「シャンソン歌手と呼ばれることがずっと嫌だった」という。(高橋 誠司)

 1951年に日本初のシャンソニエ(シャンソン喫茶)としてオープンし、美輪明宏、金子由香利、戸川昌子さんら数多くの歌い手を輩出した銀巴里。三島由紀夫、寺山修司ら多くの文人にも愛され、90年末の閉店から30年が過ぎた今もなお、シャンソンの殿堂として語り継がれている。

 「時は過ぎてゆく」は、87年に銀巴里出身歌手で初めて紅白に出場した金子の代表曲。人生の短さを淡々と、時に力を込めて歌う。「それまでのシャンソンというと、越路吹雪さん的なショーアップされたイメージが強かったと思うのですが、金子さんの内省的なシャンソンにとても衝撃を受けて。この曲はすごく地味な歌で難しいんですが、今の年になってやっと歌えるのかなと思った。日本には『行く河の流れは絶えずして…』(方丈記)という死生観がありますが、そういうものに近い」

 「ヨイトマケの唄」については、「最高の日本産のシャンソン」と表現する。「母と子の歌って一番苦手な類い。テレビの歌番組で割り振られた時に嫌だなあと思ったんですが、気づいたらバンドの伴奏にダメ出しするくらい、自分がこの歌を理解していることに気がついた。歌ってみて初めて、もう母ちゃんとか飛び越えて人類愛の歌だったんだって。父が歌の主人公と同じエンジニアだったこともあって、自分も貧しかった昭和の時代と重なるんですね。日本人がメイド・イン・ジャパンの物語を歌うって全然違う強さがある」

 子供の頃の夢は舞台女優。「NHKの舞台中継で、劇団民藝の『森は生きている』という翻訳劇を見て大ショックを受けて」。演劇が盛んな早大に進んだが「不条理劇みたいな、わけの分からないものばかりで。そこでみんなで歌うというシーンがあった時に歌の方が全然面白くて方向転換した」。バンドのボーカルに誘われ、78年のヤマハのポピュラーソングコンテストでは優秀曲に入賞。同年、世界歌謡祭にも出場したが、予選落ちとなり、レコードデビューの予定も白紙になった。

 「挫折でしたけど、ここで終わるのはもったいない気がして。大学時代に当時のボーイフレンドに連れていかれた銀巴里を思い出したんです。平日の夕方だったんですが、歌い手さんが4人で歌ってたのが衝撃で。聴いたこともないような歌で、『これがシャンソンだよ』って言われて。ひえー、こんな世界があるんだと。それが銀巴里の初体験でした」

 82年に銀巴里のオーディションに合格し、プロの歌手に。当初は「シャンソンにこだわりはなくて、銀巴里の軒下を借りてオリジナルを歌えればいいや」という感覚だったが、いざステージに立つと、見たことがない景色にたじろいだ。「普通はステージって一段高くなってるものですが、銀巴里は客席と同じ高さで100人ぐらいを前に歌うんです。自分が観客の延長線上の友達として歌ってはいけない。歌い手としての段差を持つためには中身が必要。これは並大抵なことではないなと焦りましたね」

 1回当たりの出演料はわずか1080円。「往復の交通費とラーメンを食べたら終わりでした」。それでも、シャンソンの世界では銀巴里で歌うこと自体がステータス。レギュラーとして月2回ステージに立ったが、「シャンソン歌手と言われることが嫌だった」という。「シャンソンって、お金持ちのおばさんのたしなみのように思ってる人が多くて。“おフランス的”な。実際に昨日までアマチュアの生徒だった人が、急に先生になっちゃうような世界。よく『しゃべるように歌う』と言われますが、声が出なくても、それっぽく聞こえちゃうんですね。本当はもっとその奥に普遍的なものを届けるというのが最終目標なんだけど。演歌でも民謡も、ものすごく技術が必要だけど、シャンソンだけが緩い。バカにされてるようで、とても恥ずかしかった」

 今も銀巴里があった辺りを通ると、ほろ苦い思い出がよみがえる。「選曲も服装も異端児だったから、やっぱり社長からも嫌われて出番も少なくなって。『そろそろクビだよ』と言われた直後に銀巴里自体が閉店することになった。最後の1週間はイベントで歌い手がみんな出たんですが、私だけ声が掛からなかった。19年もいたのにね」

 99年に作詞家・松本隆さんに出会い、プロデュースを受けたことで運命が開く。「小節をきちんと守るとか、ポップスの人と組むことで音楽的な決まり事とかをしっかり学べたのが大きかった」。2002年に発売したアルバムの中の一曲「わが麗しき恋物語」がラジオから口コミでヒット。「ポコポコと物語が進行していく歌ですが、人の心の隙間にうまく入ったのかな。シャンソンの良い部分が出た」。10年には紅白歌合戦にも出場するなど活動の場は大きく広がった。「この前(7月16日)、福島の須賀川という所からNHK『のど自慢』にゲストで出た時に安心したんです。演歌や歌謡曲を歌う場所だから不安で、『わけ分かんない曲でしょ』って話したら、客席のおじさんが『そんなことないよ』って言ってくれて。自分が来た道は間違ってなかったなって。もうシャンソン歌手でもいいじゃん、自分がきちんとしたシャンソンを伝えていく歌い手になればいいんだって思うようになれた」

 今回のシングルで銀巴里と向き合った。「やっぱり私を育ててくれた場所ですから。シャンソンを残していかなきゃという思いも多少はありますね。今まで年をとるのが怖かったけど、おばあさんが歌える歌がいくらでもある。年を重ねてどういう境地を開いていけるのか、すごく楽しみです」

 ◆クミコ 1954年9月26日、茨城・水戸市生まれ。68歳。78年の世界歌謡祭に出場。82年に銀巴里のオーディションに合格し、デビュー。2000年に松本隆、鈴木慶一プロデュースのアルバム「AURA」発売。10年にNHK紅白歌合戦に初出場し、広島の「原爆の子の像」のモデルの少女を歌った「INORI~祈り~」を歌う。11年3月11日の東日本大震災でコンサート直前に被災したことをきっかけに復興支援活動にも取り組む。

銀巴里の近所で11月コンサート 〇…かつて銀巴里があった場所にも近い東京・有楽町のホール「I’M A SHOW」で11月24、25日にコンサート「わが麗しき歌物語Vol.6」を開催する。銀巴里時代の先輩でもある長谷川きよし(24日)、瀬間千恵(25日)をゲストに迎える。また、10月7日に神戸朝日ホール、同22日に札幌・道新ホール、11月18日に名古屋・ウインクあいちでもコンサートを行う。

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