箱根駅伝で「寺田交差点」の伝説を残した寺田夏生監督(31)が全日本大学駅伝を一番の目標に掲げる皇学館大(三重・伊勢市)を体を張って率いている。国学院大、JR東日本で活躍した寺田監督は国学院大の恩師、前田康弘監督(45)の推薦によって7月1日付けで就任。2月まで現役バリバリの実業団ランナーだった寺田監督は時には学生と一緒に走りながらチーム強化を図る。近い将来、地元の全日本大学駅伝でシード権(8位以内)獲得を目指す。
監督と選手、というより、先輩と後輩。31歳の寺田監督と皇学館大ランナーは、互いに刺激し合って、伊勢市の大学グラウンドで激走していた。練習後、寺田監督は選手と談笑してリラックスしながらも、時折、鋭い表情を見せてアドバイスを送った。
「2月の大阪マラソンを最後に現役を引退しましたけど、その後もジョギングを続けていました。7月に皇学館大の監督になってから学生と一緒に質の高い練習をするようになったので、秋には1万メートルを29分台のペースで引っ張れると思います。主将の毛利昂太君(3年)らエース級にはかないませんけど、僕が走ることで中間層は引き上げられます。選手はみんな『強くなりたい』という気持ちがあふれている。その力になりたい」
選手を「君付け」で呼ぶ寺田監督は柔らかな笑みをたたえながら、指導者として始まった充実した日々を語る。
人生の転機は突然、訪れた。実業団のJR東日本に所属していた寺田監督は2月27日、大阪マラソンで126位(2時間27分7秒)に終わった後、競技の第一線から退いた。
「選手として、もっと結果を残したかった、という思いもありますけど、自分なりに走りきりました。後悔はありません。現役を引退した時、将来は陸上競技の指導者になりたい、という思いはありましたが、すぐになれるとは考えていませんでした。まずは、選手として、お世話になった会社(JR東日本)で精いっぱい仕事をするつもりでした」
JR東日本の一社員として、東京の八王子駅に勤務。新しい仕事を一つずつ覚えながら鉄道マンとしてスタートした春先、恩師である国学院大の前田監督から連絡があった。それが、皇学館大駅伝競走部の監督就任の打診だった。全日本大学駅伝出場を目指して2008年に創部された皇学館大駅伝競争部は17年に念願の初出場を果たし、以来、6年連続で参戦。しかし、前任の日比勝俊監督(57)が3月末で退任し、以来、監督が不在で学生主体でチーム活動を続けていた。皇学館大は「教育・学術研究交流に関する協定」を締結するなど大学同士の交流がある国学院大の前田監督に後任の人材について相談。前田監督が自信を持って推薦した人物が寺田監督だった。
「前田監督に『これは大きなチャンスだぞ』と言っていただいた。僕の気持ちとしては『やらせていただきたい』とすぐに固まりました。最終的にJR東日本の上司や妻(美保さん)にも理解を得られて、就任が決まりました」
寺田監督を推薦した前田監督は「若くて意欲にあふれているし、頭もいいんですよ。何より信頼できる人物です」と絶賛する。その上で、駒大出身の前田監督は「私も協力できることは何でも協力します。私が国学院大の監督になった時、多くの助言をしてくれた大八木弘明監督(現総監督、64)のように」と笑顔で付け加えて話した。
現在、寺田監督は横浜市の自宅から遠く離れ、三重・伊勢市に単身赴任。大学近くの学生寮で暮らし、午前6時からの朝練習、午後4時からの本練習で学生を指導。練習内容によっては一緒に走る。「日本一速い監督」の異名を持つ立大の上野裕一郎監督(38)と同じスタイルで、文字通り、体を張ってチームを率いている。
「5000メートルでは絶対に上野監督に勝てませんね。でも、ハーフマラソンかマラソンなら勝負になるかも。チャンスがあれば一緒のレースで走りたい。その時はもちろん皇学館大の学生も立大の学生に挑戦させてもらいたいですね」
皇学館大と駅伝は縁が深い。1917年に東京奠都(てんと)50周年記念として東海道五十三次を継走する壮大な計画が発表された。当初、マラソンリレーという呼称が検討されたが、皇学館の武田千代三郎・第6代館長が日本古来の交通制度の「駅制」「伝馬制」を語源として「駅伝」と命名した。また、皇学館大のキャンパスは、全日本大学駅伝の最終8区の沿道で、ゴールの伊勢神宮内宮宇治橋前の約2キロ手前に位置する。地元の伊勢路で覇を競う全日本大学駅伝を最大の目標としている。
しかし、今年の東海地区選考会(6月24日)で名古屋大に惜敗して2位。7年連続の出場を逃した。来年以降、伊勢路に復活するための強化策として箱根駅伝予選会(10月14日、東京・立川市)の参戦を選手に訴えた。第100回箱根駅伝(来年1月2、3日)の予選会は全国の大学に参加資格がある。ハーフマラソン(21・0975キロ)の上位10人の合計タイムで競うタフな戦いは皇学館大にとっては未知数。学生3大駅伝開幕戦の出雲駅伝(10月9日)には昨年12月の東海学生駅伝優勝の実績で出場権を持っており、6区間45・1キロの出雲から中4日で長丁場の箱根駅伝予選会というハードスケジュールになる。
「突破(13位以内)は厳しいですけど、レベルが高い箱根駅伝予選会に挑戦することでチームは強くなれる。来年以降の全日本大学駅伝に向けて、強くなるためのステップです」
新監督の言葉に選手は賛意を示した。毛利昂太主将(3年)は「寺田監督の言葉で箱根駅伝予選会に挑戦する目的が明確になりました」と前向きに話した。堤菜陽(なお)主務(2年)は「真剣に私たちに向き合ってくれる」と信頼を寄せる。
2011年の箱根駅伝10区。国学院大1年だった寺田監督はゴール直前の交差点でコースを間違えながらも母校初のシード権を獲得。以来、その地は「寺田交差点」と呼ばれる。皇学館大の選手たちは「動画で見たことがあります」と笑う。その選手を寺田監督は苦笑いしながら優しく見つめる。
「来年は必ず全日本大学駅伝に復活出場して、そして、近い将来、関東の競合と競り合ってシード権(8位以内)を目指します。地元の伊勢市民の皆さん、皇学館大の学生、先生、職員の皆さんに応援してもらえるチームをつくります」
東京・大手町の箱根駅伝ゴール手前で伝説を残した寺田監督が、三重・伊勢市の全日本大学駅伝ゴール手前にある皇学館大を率いることになったことは、運命と言える。箱根路から伊勢路へ。伝説は続く。(竹内 達朗)
◆皇学館大 1882年に皇学館が創設。1903に官立の専門学校に。40年、官立の神宮皇学館大に昇格。46年、連合国軍総司令部(GHQ)による指令で廃学。62年、皇学館大が開学した。駅伝競走部は2008年に陸上競技部から分離独立し、創部された。17年に全日本大学駅伝に初出場し、以来、6年連続で参戦。最高成績は17位(17、20、21年)。20年大会では川瀬翔也(現ホンダ)が2区で17人をごぼう抜きし、一時は4位を走った。
◆寺田 夏生(てらだ・なつき)1991年8月30日、長崎・時津町生まれ。31歳。時津中時代は野球部に所属しながら陸上、駅伝の大会にも参加。諫早高では3年連続で全国高校駅伝に出場(1年2区27位、2年6区8位、3年3区30位)。2010年に国学院大人間開発学部に入学。箱根駅伝に4年連続で出場(1年10区11位、2年5区5位、3年2区15位、4年2区7位)。14年に卒業し、JR東日本に入社。19年、福岡国際マラソンで4位。20年の同マラソンでは3位。23年に現役引退。家族は妻、長男。
◆「寺田交差点」伝説 2011年箱根駅伝。国学院大の寺田夏生は1年生ながらアンカーの10区を任された。11位でタスキを受けると、追い上げてシード権(10位以内)争いに参戦。ゴール直前まで国学院大、日体大、青学大、城西大の4校が8位争いを繰り広げた。4校のうち、3校がシード権獲得、1校がシード権を逃すという世紀の大激戦。寺田はこん身のラストスパートを放ち、8位集団の先頭に立った。しかし、残り約120メートルの交差点で右折した中継車につられて直進するはずが、右折。コースミスに気付いた時には約30メートルのロスで11位に転落。大ピンチから再度の猛ラストスパートで城西大を抜き返し、10位でゴールした。いまや強豪校となった国学院大の初シードは、あまりに劇的な展開だった。ゴール直後「あっぶねぇ…」と苦笑いしたシーンは語り草となっており、寺田がコースを間違えた大手町の交差点は、駅伝ファンの間では「寺田交差点」と呼ばれている。