2011年箱根駅伝10区で「寺田交差点」の伝説を残した寺田夏生氏が、1日に東海の雄・皇学館大(本拠=三重・伊勢市)の監督となった。母校・国学院大の恩師、前田康弘監督(45)の推薦で就任した31歳の青年監督は、選手とともに寮生活を送り、時には学生と一緒に走ってチームを強化している。将来的に地元の全日本大学駅伝でのシード権(8位以内)獲得が目標で、全国の大学が参加可能な今秋の第100回箱根駅伝予選会(10月14日、立川)にも挑戦。チームのステップアップを図る。(取材・構成=竹内 達朗)
監督と選手というよりは、先輩と後輩。31歳の寺田監督と皇学館大ランナーはともに走り、練習後、談笑しながらミーティングをする。
「今でも1万メートルは29分台で走れます。主将の毛利昂太君らエース級にはかなわないけど、中間層は引っ張ることができます」
選手を君付けで呼ぶ指揮官は、充実した表情で新たな日々を語る。転機は突然訪れた。JR東日本に所属し、2月の大阪マラソンを最後に引退した。
「将来は指導者になりたいと思っていましたけど、すぐなれるとは考えていなかった。まずは会社(JR東日本)で精いっぱい仕事をするつもりでした」
八王子駅に勤務していた春先、恩師の国学院大・前田監督から連絡があった。皇学館大は3月で退任した日比勝俊前監督(57)の後任について、大学間で交流がある前田監督に相談。自信を持って推薦した人物が寺田氏だった。
「僕の気持ちは、すぐに固まりました。最終的にJR東日本の上司や妻(美保さん)も賛成してくれた」
前田監督も「若くて意欲的。頭もいい。私も最大限、協力します。私が国学院大の監督になった時、母校(駒大)の大八木弘明監督(現総監督)が助けてくれたように」と期待する。
現在は横浜市の自宅を離れて単身赴任。寮で暮らし、午前6時からと午後4時からの練習では「日本一速い監督」の異名を持つ立大の上野裕一郎監督(37)のように一緒に走ることもある。
「上野監督に5000メートルでは絶対に勝てない。でも、ハーフマラソンかマラソンなら勝負になるかも。チャンスがあれば一緒のレースで走りたいですね」
大学は全日本大学駅伝のゴール・伊勢神宮内宮の約2キロ手前に位置する。地元でもある同駅伝を最大の目標としているが、1枠を争った今年の東海地区選考会では名大に敗れ2位。7年連続の出場を逃した。来年、伊勢路に復活するための強化策として第100回箱根駅伝の予選会に挑戦する。今回は全国の大学に参加資格があるが、ハーフマラソン上位10人の合計タイムで競う戦いは未知数だ。
「突破(13位以内)は厳しいですが、レベルが高い箱根予選会に挑戦することでチームは強くなれる。来年以降の全日本大学駅伝に向けてのステップです」
11年の箱根駅伝10区。国学院大1年だった寺田監督はゴール直前の交差点でコースを間違えながらも、10位に入り母校初のシード権を獲得。その地は「寺田交差点」と呼ばれる。「動画で見たことがあります」と笑う教え子たちを寺田監督は苦笑いしながら見つめる。
「来年は必ず全日本大学駅伝に復活して、近い将来、関東の強豪と競り合ってシード権を目指します。伊勢市民の皆さん、皇学館大の皆さんに応援してもらえるチームをつくります」
大手町のゴール手前で伝説を残した寺田監督が、伊勢神宮のゴール手前にある皇学館大を率いることになったことは運命だ。箱根路から伊勢路へ。伝説は続く。
◆11年大会10区のシード争い 鶴見中継所で11位スタートの国学院大・寺田は、後ろから来た日体大、山梨学院大とともに前を追った。15キロを過ぎて青学大、帝京大と並び9位集団を形成。帝京大を競り落とし、残り4キロで城西大に追いつき、5校の8位集団となる。残り1キロで山梨学院大が脱落。残る1校がシード落ちする中で寺田は前に出るが、ゴール120メートル前の交差点で中継車がコースを外れると、寺田もつられて右折する形に。最後尾へ下がったが、ゴール手前で城西大を逆転。10位で大学初のシード権を獲得した。
◆寺田 夏生(てらだ・なつき)1991年8月30日、長崎・時津町生まれ。31歳。時津中時代は野球部。諫早高で本格的に陸上を始め、3年連続で全国高校駅伝に出場。2010年に国学院大に入学。箱根駅伝では1年10区11位、2年5区5位、3年2区15位、4年2区7位。14年にJR東日本へ入社。20年の福岡国際マラソンで2時間8分3秒の自己ベストで3位。今春に引退。家族は妻と1男。
◆皇学館大と駅伝 1882年に創立した神宮皇学館の武田千代三郎館長が、1917年に東海道(京都―東京)で行われた日本古来の交通制度「駅制」「伝馬制」を語源に「駅伝」と命名。戦後、皇学館は連合国総司令部により廃学。62年に私立大として再興。駅伝競走部は2008年に陸上競技部から分離独立し、創部。17年に全日本大学駅伝に初出場し、以来、6年連続で参戦。20年に川瀬翔矢(現ホンダ)が2区で17人をごぼう抜きし、一時は4位を走った。