国学院大OB・寺田夏生氏が皇学館大監督に就任 箱根駅伝「寺田交差点」の伝説から12年、新たな挑戦

スポーツ報知
2011年箱根駅伝で国学院大のアンカーを務め、10位でゴールした寺田夏生氏

 国学院大、JR東日本で活躍した寺田夏生氏(31)が7月1日付けで皇学館大駅伝競走部の監督に就任した。三重・伊勢市の皇学館大はキャンパス近くにゴールする全日本大学駅伝の出場を目指し、2008年に駅伝競走部を創部。前任の日比勝俊監督(57)が今年3月末で退任し、以来、監督が不在で学生主体でチーム活動を続ける一方で、後任監督の人選が進められ、指導者としては未経験ながらも若さと情熱にあふれる寺田氏に白羽の矢が立った。

 寺田氏は長崎・諫早高を卒業後、2010年に国学院大に入学。11年箱根駅伝では1年生ながらアンカーの10区を任されて「伝説」を残した。

 11位でタスキを受けた寺田氏はシード権(10位以内)争いに参戦。ゴール直前まで国学院大、日体大、青学大、城西大の4校が8位争いを繰り広げた。つまり、4校のうち3校がシード権を獲得、1校だけがシード権を逃すという世紀の大激戦となった。寺田氏はこん身のラストスパートを放ち、8位集団の先頭に立ったが、残り約120メートルの交差点で右折した中継車につられて曲がってしまった。「後続が来ない!?」と気付いた時には約30メートルのロスで11位に転落。大ピンチから再度の猛ラストスパートで城西大を抜き返し、10位でゴールした。

 いまや強豪校となった国学院大の初シードは、あまりに劇的な展開だった。ゴール直後「あっぶねぇ…」と苦笑いしたシーンは語り草となっており、寺田氏がコースを間違えた大手町の交差点は、駅伝ファンの間では「寺田交差点」と呼ばれて定着。毎年、箱根駅伝では多くのファンが記念撮影する人気スポットとなっている。

 寺田氏は話題先行のプレッシャーに負けず、2年生以降も着実に成長。国学院大のエースとして奮闘し、箱根駅伝で2年5区5位、3年2区15位、4年2区7位の戦績を残した。

 14年に卒業し、実業団のJR東日本に入社。20年の福岡国際マラソンでは2時間8分3秒の自己ベスト記録で3位と活躍した。今年2月の大阪マラソン(126位、2時間27分7秒)を最後に競技を引退。その後はJR東日本の一社員として駅業務などに従事していた。皇学館大からのオファーに対して、恩師の国学院大・前田康弘監督(45)らに相談。JR東日本を退社し、指導者としての道へ踏み出すことを決断した。

 駒大出身の前田監督の教え子が大学の監督になることは初めて。前田監督は昨季、学生駅伝3冠を果たした駒大の大八木弘明総監督(64)の薫陶を受けており、その前田監督の教え子の寺田氏は「孫弟子」に当たる。大八木総監督、前田監督に続き、名指導者となることが期待される。

 皇学館大は17年に念願の全日本大学駅伝初出場を果たし、以来、6年連続で伊勢路を駆けていたが、1枠をかけて争われた今年の全日本大学駅伝東海地区予選では名古屋大に惜敗して2位。7年連続の出場を逃し、今、まさに「曲がり角」に立つ。「寺田交差点」として名をはせる寺田新監督と共に、再び、地元の伊勢路を目指す。

※一部記事に誤りがあり、訂正しました。

 ◆皇学館大 1882年に皇学館が創設。1903に官立の専門学校に。40年、官立の神宮皇学館大に昇格。46年、連合国軍総司令部(GHQ)による神道指令により廃学。62年、皇学館大が開学した。駅伝競走部は2008年に陸上競技部から分離独立し、創部された。17年に全日本大学駅伝に初出場し、以来、6年連続で参戦。最高成績は17位(17、20、21年)。20年大会では川瀬翔也(現ホンダ)が2区で17人をごぼう抜きし、一時は4位を走った。

 ◆寺田 夏生(てらだ・なつき)1991年8月30日、長崎・時津町生まれ。31歳。時津中時代は野球部に所属しながら陸上、駅伝の大会にも参加。諫早高では3年連続で全国高校駅伝に出場(1年2区27位、2年6区8位、3年3区30位)。2010年に国学院大人間開発学部に入学。箱根駅伝に4年連続で出場(1年10区11位、2年5区5位、3年2区15位、4年2区7位)。14年に卒業し、JR東日本に入社。19年、福岡国際マラソンで4位。20年の同マラソンでは3位。23年に現役引退。家族は妻、長男。

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