佐藤B作、胃がん発見の恩人は中村勘三郎さん 「検査してる?」の一言なければ「手遅れになっていた」

スポーツ報知
今は元気いっぱいだが「がんの恐ろしさを知った」と話す佐藤B作(カメラ・頓所 美代子)

 劇団東京ヴォードヴィルショー座長で俳優の佐藤B作(74)は、初期の胃がん手術で2008年に胃の3分の2を切除している。中村勘三郎さん(12年没、享年57)の一言が検査を受けるきっかけだった。15年たち再発は心配ないというが、当時は芝居優先。治療を後まわしにし、担当医にどなられたこともあったという。福島の温泉街に生まれ育ち、地元でも有名な秀才少年だった。商社マンを夢見て早大に入ったはずが…。本人も予想しない流れで人生は展開していった。(内野 小百美)

 「君は死んでもいいのか!」。B作は担当医に一喝された。心配して京都の巡業先まで顔を見せ、一刻も早く手術するよう迫った。しかし、かたくなに拒否した。「芝居を途中で降りることは考えられなかった。劇団員の生活費がかかってますからね。妻(あめくみちこ)も『あなたが決めれば』と。劇団の状況を知るだけに何も言いませんでした」

 がん発見の恩人は舞台共演した勘三郎さんだ。「最近、酒残るらしいね。検査してる?」と聞かれた。2年間、健康診断を受けていなかった。「ダメだよ」と念を押され、すぐ行くと初期の胃がんだった。「食欲おう盛でピンピンしてるのに信じられなかった。うちはがんでなく脳いっ血の家系と思ってきたので。勘三郎さんの一言がなければ、手遅れになっていたでしょう」

 医師が懸念したのは「クセの悪いがん」だったからだ。「1か所に固まっておらず、砂をまいたように広がっていた。手術して開けてみないとはっきりしたことが分からない、と言われたんです」。患う中で改めてこの病の特徴を思った。「がんは、すごく隠れ上手な病気。発見が大変。早く切ってしまえば問題ない。でも見つからないようひっそり、隠れて大きくなるのが上手。痛み出した時には手遅れ。こわいですよ」

 手術で胃の3分の2を失い、翌年、食道に影が見つかり、内視鏡手術を受けた。「胃の手術後は固形のものを食べると、活力が湧いてきた。食べ物の力ってすごい。大変だったのは退院後の半年間。胃が小さくなって食欲が落ち、14キロやせて。ウォーキングに水2リットル飲むことなど毎日やることがいっぱいで」。体力低下を防ぐため、今も朝起きたらマンションの階段の上り下り、1時間歩いて体操とルーチンが健康を支える。

 14歳年下の妻に感謝する。劇団の試験を受けに来た時から、目を引く存在だったが、まさか夫婦になるとは。本人も驚く。「直接、感謝の気持ちを伝えるのは照れ臭くてね。彼女は沖縄出身なんですが、しっかりしていて強い人でね」。よく2人で晩酌する。小さな夫婦げんかも起きる。「不思議ですが、酒は手術前より飲めるようになった。けんかの理由? 僕の過去の異性問題の話とかが多いですかね。でも、いつも本当に感謝してます」

 本名の「佐藤俊夫」は父が考えた「砂糖と塩」が由来。「すごくおとなしい子でした。でも何か演じるのが好きで。年1回の学芸会でほめられるのがうれしくてね」。福島の飯坂温泉で育った。実家の青果店が順調で裕福だった。「編み上げの革靴履いて小学校に行ったり、みんな持ってないようなスキー用具がうちにあったり」

 しかし悩みが。偏食がひどかった。「今は好き嫌いないですが、昔は魚も肉も野菜も嫌い。においが苦手でおふくろに無理やり口に入れられたり」。少しのご飯を納豆とのりで食べていた。「すぐ寝込んだり、病気ばかりしてる子でした」

 一方で成績は抜群に良かった。「勉強が好きでした。中学に入ると2つも塾に通って。早稲田に行きたくてね」。商売のシビアさを知る母親からは「官僚になれ、官僚になれ」と言われたそうだが、ピンとこなかった。

 自らの意思で勉強に打ち込んでいたが、アクシデントもあった。ある試験中に睡眠不足から激しい胃けいれんを起こしたのだ。「胃袋がきゅーっとなってキリキリキリと締め付けられる痛みで。胃をぞうきんで絞られるようでした」。子どもながらストレスで胃を酷使していた。

 早大商学部には現役で合格した。高校の担任教師から「福島大の経済学部なら『絶対に受かる』と太鼓判。でも『福島にはもういたくないんですよ』と。早稲田志望を伝えると『微妙だな~』と言われて。生意気なエリート意識でしたね」

 商社マンになって世界を飛び回る夢を描いていた。「英会話を津田塾に習いに行くなど計画もきっちり立てて始めたものの、2か月でパッタリですよ」。演劇に目覚め始め、授業に出なくなっていた。「芝居の稽古も大道具づくりも、そこにいること自体が楽しくて楽しくて。勉強一筋だったんで青春を猛烈に取り戻すような感じで人生、変わっていったんでしょうね」

 73年に旗揚げした劇団東京ヴォードヴィルショーは今年創立50周年を迎えた。B作は“劇団の顔”であり続けた。半世紀も続く劇団は、そうない。「(柄本明座長の)東京乾電池があと数年で50年かな。気心の知れた男が5人集まって。こんなに続けるつもりはなかったですけどね」

 誰でも気軽に楽しめる軽演劇(ヴォードヴィル)をスローガンに掲げた。「ちょっとヨーロッパ的に『ウ』に濁点にしたけど劇団名を覚えてもらえなくてね。東京ボディービルショーや東京ボートピープルショーとか言われたりね」。ちなみに「佐藤B作」の芸名は、自由劇場の研究生だったころ、佐藤栄作内閣で「栄作→A作」にちなみ、仲間から「B作」と呼ばれていたのを、そのまま使うようになったからだという。

 「芸名も覚えられるまでに時間かかってね。20代の時、名古屋のテレビ局で楽屋の入り口に『佐藤乃作様』と。“B”が“乃”に。ノサク様ですよ」。今では笑い話だ。

 劇団をスタートしたのは、「早くドラマに出られる俳優に」と売れるための手段だった。それが、「だんだん何か、もっとおもしろい芝居ができるんじゃないか、という欲深さが出てきた。劇団にいればやりたいことが試せますから」。

 死ぬほど勉強して夢見た商社マンの道も捨てられるほど、B作にとって芝居の世界は価値があり、人生を満たしてくれるものだった。

 24歳だった若者は人生の終盤に差し掛かろうとしている。「お客さんの笑い声が好きでね。でも、笑いのその先、その奥にある演劇を求めて。年を取るにつれ、もっとつくりたいと強く思うようになってますね」。変化しながらも、ひとつの集団が50年間も続いているのは、必要とされているからに他ならない。

 7月に劇団創立50周年記念公演として東京・紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYAで「その場しのぎの男たち」(鵜山仁演出、21~30日)を上演。明治時代に起きたロシア皇太子襲撃事件(大津事件)をモチーフに、政治家たちの奔走ぶりを描く。

 B作の依頼で92年、三谷幸喜氏が初めて同劇団に書き下ろした作品で10年ごとに再演。「50年やって一番好きな喜劇がこれ。ただ笑わせるだけじゃないんです」。初演時から出演する伊東四朗(86)が伊藤博文役で今回も出演。「『やるよ』と返事を聞き、本当にうれしかった。喜劇を熟知されているだけに。安心してお任せできる存在」と、より完成度の高いものを目指す。坂本あきら、佐渡稔、山口良一らが共演。

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