スポーツビジネスの第一人者で、ロッテの事業本部長時代には球団経営改革を進めた伝説のフロント・荒木重雄さんが故郷の群馬県桐生市で、中学硬式チーム「桐生南ポニー」を起ち上げた。パートナーとして監督を務めるのは大阪桐蔭時代に1学年下の中田翔(現巨人)とクリーンナップを形成し、明大やBCリーグでもプレーした強打者・謝敷正吾さんだ。「球都」を熱くする男たちの挑戦。後編は「異色のタッグはなぜ結成されたのか」。(加藤 弘士)
◇大阪桐蔭の強打者が桐生を拠点にした理由
謝敷正吾さんは2000年代にアマチュア野球担当記者を務めた私にとって、忘れられない選手だ。
強豪・大阪桐蔭のスラッガーとして、2006年夏の甲子園1回戦・横浜戦での3ランなど、その打棒は鮮明に記憶に残るが、同等に野球に取り組む明るく快活な姿勢、勝っても負けても大きな声でメディアに対応する、根っからの陽キャラの姿が印象的だった。
早大のエースだった斎藤佑樹さんと同じ88年世代。東京六大学野球が観客動員的にも盛り上がった4年間、謝敷さんは明大の打者として神宮の杜を沸かせ、卒業後はBC石川でもプレーした。
そんな謝敷さんが、なぜ桐生に?
「僕は24歳で引退した後、2014年にオープンハウスへ入社しました。6年間営業を務め、3年前に社長室に異動したんです」
オープンハウスグループは、プロ野球・ヤクルトのほか、東京六大学野球の全試合をライブ配信する「BIG6.TV」のスポンサーも務めていた。同社はまた「地域共創」という理念の下、荒井正昭社長の出身地である群馬県で様々な地域貢献を行っており、桐生南高校の跡地利用事業もその一環だった。
一方、荒木さんが起ち上げた桐生南ポニーは、この桐生南高校の跡地を拠点として活動することになった。荒木さんは、荒井社長と、桐生南高校野球部のOB同士という縁もあり、荒井社長の下で働いていた謝敷さんの存在を知り、桐生南ポニーの指導者として白羽の矢を立てたのだ。
大阪出身の謝敷さんが、縁もゆかりもない桐生に…という私の言葉を遮り、笑いながら言った。
「いや、縁やゆかりがあるんですよ(笑)。僕が卒業した明治大学野球部の島岡吉郎元監督…島岡御大と、桐生中学、桐生高校を甲子園に導いた稲川東一郎監督は仲良しだったそうなんです。さらにいえば、大阪桐蔭という四文字の中には桐生の『桐』の字が入っています(笑)。これも何かの縁だし、必然だった気もするんです」
◇コンセプトは「全国で一番愉しいチーム」
広大な桐生南高校の跡地を使って、『球都』にふさわしいチームを起ち上げ、地域を活性化させたい-。そんな中、なぜ中学生というカテゴリーに着目したのか。
荒木さんは言う。
「桐生南高校の跡地で野球をやろうとなった時、小学校、中学校、社会人のクラブチームのどれにしようかと考えたんです。元々、桐生には『オール桐生』という社会人チームがあって、1946年には都市対抗で準優勝したこともあります。『もう一度社会人』という選択肢も、なくはなかった。ただ野球人口減の中、一番の裾野である少年野球の重要性を考えたんです。小学生と高校生の間にあって、ここが輝けば、小学生にとっても目標になる。高校野球の入り口にもなっていくという絵が描けるからです」
そして創設された「桐生南ポニー」のコンセプトとして、謝敷さんは「全国で一番愉しいチーム」を掲げる。
なぜ「楽しい」ではなく、「愉しい」なのか。
「たのしむには、『楽しむ』と『愉しむ』の二通りがあります。練習が楽というチームは全然求めていません。選手が野球に取り組む中で、考えて考えて、その結果できなかったことができるようになる。その時に、心の底から『愉しいな』と思えるようになる。そんな意味も込めて『愉しむ』にしたんです」
すると、荒木さんがすかさず二の矢を放った。
「『楽しむ』が外的要因によるものなら、『愉』はりっしんべん…こころと書くんです。自分の意志として愉しんでいくという、ベクトルの違いかなと思います。自発的で能動的な『愉しさ』。頑張って、努力して勝ったときの『愉しさ』ですね。野球って、愉しいんですよ。だから僕たちは子どもの頃、ずっと野球で遊んでいたわけですから」
自発的で能動的。その要素はこれまでの少年野球チームに欠けていた部分かもしれない。むしろ大人から指示を出されて、その通りにできた子が「いい選手」とされてきた時代が長かった。
荒木さんは続けた。
「誤解を恐れずに言えば、それは悪いことじゃないんです。なぜならば、そのような人材が日本国として必要とされてきたからです。大企業中心の大量生産の時代、トップの方針で社員全員がそこに向かうという時代は、そのような人材を野球というツールを使って育てれば、社会で重宝されてきた。社会のニーズを考えれば、それが最高の教育だったんです。だから野球部出身者は引く手あまただった。それはそれで間違ってはいなかったんです」
そして、時代は変わった。
「ツールという観点で言えば、指示がなければ動けない人材を作ってはダメな時代になりました。現代では適合できないわけです。これからの中学生に必要なのは、全てのことに対して、自分で考えて動くということ。これを、野球を通じて学べれば、結果的にうまくなるし、その思考こそ勉強に生きるかもしれない。その考え方が社会に出ても、財産として残っていけばいいと思うんです」
◇球都・桐生に吹く「野球の風」
「球都桐生プロジェクト」の効果もあって、街に野球の風は吹く。謝敷さんは胸を張る。
「昨夏に地元から樹徳高校が甲子園に出て、秋には桐生出身の早大・蛭間拓哉外野手がドラフト1位で西武に入団しました。西武のGM・渡辺久信さんも桐生の出身。アマチュアでは青学大の監督だった河原井正雄さん、社会人・ヤマハの監督を務められて、アトランタ五輪の日本代表監督だった川島勝司さんも桐生のご出身です。多くの野球人を輩出している。8月26日には東京六大学のオールスターゲームを桐生で行うことも決まったんです」
荒木さんは最後に、熱っぽくこう語った。
「運命というか、不思議なんですけど、『球都の父』と呼んでもいい、戦前に桐生中を甲子園に導いた稲川東一郎先生ご夫妻が、私の両親の仲人だったんですね。私は子どもの頃、稲川先生の奥さんにユニホームをいただいたのが、野球をやるきっかけになった。だから私は勝手に『球都の申し子』だと思っているんです(笑)。今年は還暦を迎えるので、まさに生まれ変わるタイミングだと思っています。地元の桐生で新しい球都を作るということに、これからの人生、情熱を燃やしていきたいですね」
4月1日、チームは本格的に始動。1期生となる選手は1年16人、2年5人、3年1人の計22人だ。5月28日には初の公式戦に臨み、勝利するなど、船出したチームは様々な経験を積み、前に進もうとしている。
人々が野球を通じてつながっていく。想いと想いが交差し、新たな出会いを生んでいく。
球音の生み出す熱によって、街はどのように彩られていくのか。球都からの挑戦は、まだ始まったばかりだ。