TBSの外山惠理アナウンサー(47)がタレントの玉袋筋太郎(55)とパーソナリティーを務めるTBSラジオ「金曜ワイドラジオTOKYO えんがわ」(金曜・後1時)が今月スタートした。入社して25年。2016年に亡くなった放送作家の永六輔さんに育てられ、今やラジオの看板アナに。「私はラジオが大好き。やっぱり向き不向きがありますから」と明るく笑い飛ばした。(浦本 将樹)
アナウンサーではあるが、カメラが苦手だ。「5秒以上、見ていられないんです。笑うなんて、とてもとても」。インタビュー中は明るかったのに、写真撮影になると急にぎこちなくなる。ホームページの写真は20年近く更新していない。
今月から新番組「―えんがわ」がスタートした。「誰でも遊びに来られる」というイメージのタイトルだ。これまでの金曜日の「たまむすび」が引き継がれる形。その中で「ラジオTOKYOリメイク」など新しい企画も盛り込んだ。「毒蝮三太夫さんがすごく若い頃の音源などを流したり、当時の関係者も呼んだりします。学生時代からラジオが好きだったのでうれしいです」と喜ぶ。
相棒の玉袋とは前番組から足かけ7年目となる。お互い気を使うタイプだが「玉さんが心を開く瞬間が、ドアの開く時のように分かるようになった」。今では玉袋のテレビのレギュラー番組「町中華で飲(や)ろうぜ」(BS―TBS)に、最多回数でゲスト出演するなど相性は抜群だ。
入社当初は苦労を味わった。「テレビは大変。何も思っていない時でも笑顔でいる、というのが難しくて」と振り返る。堺正章のアシスタントを務めた「チューボーですよ!」を担当した際、週刊誌に「あいさつもできない」と書かれ、母にも怒られた。「子供の頃から、あいさつは必ずするのに。でも、そう思っていない人がいたのかな」と反省する。
助けてくれたのがその後、「土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界」で一緒になった永さんだった。毎週番組に届く100通近い苦情の手紙。「私、こんなに嫌われているのかな」と落ち込みながらも、全部読んだ。
すると、送られてくるはがきの中に「永さんからは『いい面を見てあげて』とありましたが…」というメッセージが目につくようになった。永さんが全ての苦情に返事を書いてフォローしてくれていたのだ。今でも思い返すと涙がにじむという。
「(永さんは)お礼しても『何のこと?』と自分では絶対言わない人。私も返信を書くことにしました」。出社の度に「不快な思いをさせて申し訳ありません」と、はがきを書く毎日が続いたが、手紙は徐々に応援のメッセージへと変わっていった。「あの頃が人生で一番成長できました」と振り返る。「ラジオの魅力はリスナーとの距離だと思います。たまにイベントで会っても、ラジオネームを言っていただけると分かりますし。スタジオでも、はがきを見ると顔が浮かんでくるようになります」
アナウンサーになったのは、テレビ局志望の友達に「いつまで親のすねをかじるの?」と説教され、一緒に書類をもらいに行ったのがきっかけ。文化放送のアナウンサーだった母は「あら、そう」という反応だった。
目標の一つに掲げるのは新番組の継続だ。「永さんとの番組は16年続きました。玉さんとあと10年続けば超えられる。玉さんも先日孫が生まれました。お酒をついでもらうまで頑張ってくれそうです」
アナウンサーになって25年。結婚や出産後も仕事を続けるなど、女性アナウンサーの職場環境は変わってきた。気づくと自身も管理職になっていたが、「役職の名前、忘れました」と出世にも無頓着。「テレビは、向いている人は絶対向いているけど、私はちょっと。ラジオだったら、私が黙っていてもリスナーが表情を想像してくれます」と常に自然体だ。ラジオが大好きで、好きに話し続けるという独自のポジションを、これからも歩いていく。
◆外山 惠理(とやま・えり)
▼経歴 1975年10月22日、東京都出身。慶応義塾大学文学部卒業。大学時代はチアリーディング部に所属。98年4月、入社。同期は駒田健吾、新夕悦男両アナ。
▼担当番組 地上波は「ひるおび」(月~金曜・前10時25分)火・水曜ナレーション。ラジオは「爆笑問題の日曜サンデー」(日曜・後1時)第5週日曜など。
▼趣味 スキー、ゴルフ、水泳、テニス、ピアノ。
▼実家 江戸時代創業の和菓子店「言問団子」。
▼アナウンサーになっていなかったら 幼稚園の先生になりたかったが、教職課程終盤で中学高校の先生にしかなれないと知り断念。途方に暮れた。
▼永六輔さんから学んだこと 「物知り」と言われても「人から教わったんです」と返す謙虚な心。人を傷つけないなら、自分に関する話は多少盛ってもいい。
▼血液型 A。