第5回WBCで3大会ぶりの世界一に輝いた侍ジャパン。1次ラウンド(R)から7連勝。決勝で米国を破るも、その道のりは決して平坦ではなかった。スポーツ報知では「侍世界一のキセキ」と題し、その舞台裏に迫る全3回の連載をスタート。第1回は、優勝の原動力となったメジャーリーガーの存在だ。大谷の参加決定から、ダルビッシュ、ヌートバーと続々と参戦した裏側には、栗山監督が以前から知っていた二刀流の世界一への執念があった。
嫌な予感がした。22年11月、栗山監督はスマホの着信に「大谷翔平」の文字を確認すると、背筋を伸ばし電話に出た。17年オフ、日本ハムからエンゼルスに移籍後、「電話をかける時は何かうまくいかないことがあった時」と決まっていた。
指揮官は「けがではないのか。交通事故かな」と、気が気でなかった。しかし、話すと、そうではない様子は感じた。「監督、WBCに出ます」という言葉を聞いて、安堵(あんど)したとともに、責任感が一気に増した。
3大会ぶりの世界一は大谷の参加から始まったと言っても過言ではない。WBC制覇へ向け、指揮官は21年12月の侍ジャパン監督就任会見で「必要ですか? 翔平」と、とぼけて見せた。しかし、日本ハム時代の2人の関係は周知の事実。「大谷を呼ぶがための栗山監督」という、世間の勘ぐりも耳にも入っていた。
WBC出場は、本人の意思とは別に所属球団の許可が必要。師弟関係をもってしても、そのハードルは高い。しかし、出場を信じていた。17年WBCは右足首痛で直前に辞退。無念さ、絶望感に打ちひしがれた姿を誰よりも見ていた。また、エンゼルス移籍後はプレーオフ出場がなく、「ヒリヒリした戦い」に飢えていることも知っていた。
指揮官は昨夏に渡米。訪問した際には「何も手応えはない」状態だったが、体の状態も問題なく、日本野球の将来のために大谷は決断した。相乗効果は絶大だった。日本ハム時代の背番号「11」の先輩であるダルビッシュには直接連絡し、WBC出場を誘った。後にダルは、「大谷君が優勝したいのがすごく伝わってきた。前向きにさせられた」と説明している。また、日系人初の侍メンバーとなったヌートバーはエンゼルス・水原通訳を通じ“勧誘”。今回、出場資格を満たさなかったが、日本にルーツがあるガーディアンズのスティーブン・クワン外野手(25)にも声をかけるなど、「最強ジャパン」をつくるための“GM活動”を展開。それだけ勝ちたかった。
結果、大谷から始まり、メジャーリーガーは、ダルビッシュ、鈴木誠(後に左脇腹痛で辞退)、吉田正、ヌートバーと過去最多タイ5人が代表に名を連ね土台が整った。メジャー組で唯一、宮崎合宿から参加したダルビッシュは、メンバー最年長36歳ながら「食事会」で積極的に対話。実は、事前に侍投手陣の動画をチェック、何を聞かれても答えられるように準備をして対話に臨むなど、徹底していた。これが結束を一気に高めた。栗山監督が「ダルビッシュ・ジャパン」と形容するほど、中心にいた。ダルも優勝後に「チームワークは絶対大会ナンバーワン」と自負する完成度だった。
ヌートバーは、陽気な性格と「ペッパーミル」パフォーマンスで一躍人気者となった。「1番」抜てきに応え、1次Rから侍打線をけん引した。開幕投手の大谷は二刀流でMVPを獲得。吉田正も大会最多を更新する13打点と勝負強さを見せた。指揮官が「米国を倒すにはどうしても米国でやっている選手が必要」の言葉通り、チームの中心にメジャーリーガーが複数いたことが、7連勝Vの最大の要因となった。
しかし、メジャー組の参加、合流に至るまでには、温厚な栗山監督も怒りをはき出すほどの険しい道があった。(つづく)