【春場所 伝説の8番】<5>朝汐初Vから春3連覇「大阪太郎」

スポーツ報知
1956年春場所の番付

◆1956年千秋楽 ▽優勝決定ともえ戦 〇朝汐(寄り切り)若ノ花●(3月25日、大阪府立体育館)

 1956年は大関・若ノ花、関脇・朝汐、平幕の若羽黒の3人が12勝3敗で並び、優勝決定ともえ戦となった。主役は朝汐だった。若ノ花戦、右に変わった相手に体勢を崩されながらも残した。右上手を引いて左四つ。投げからジワリと攻め、若ノ花を寄り切った。続く若羽黒戦も完勝し、昭和生まれ力士として初の優勝を飾った。

 「夢にも優勝できるとは思っていなかった。勝つというよりは、とにかく土俵を務めることが精いっぱいだった」との言葉は偽らざる気持ちだったのだろう。紋付きはかまが間に合わず、土俵と同じ締め込み姿のままVパレードに臨んだ。3月26日付の報知新聞も、大勢のファンに囲まれた歓喜のドタバタ劇を報じている。

 1年後の春場所を13勝2敗で制し、大関に昇進。翌年も13勝2敗で優勝し、春3連覇。大阪での抜群の強さに「大阪太郎」の呼び名が定着した。59年春は序盤に2敗しながらも、13勝の優勝次点で場所後、横綱に昇進。当時は「初土俵(48年10月)が大阪、十両で優勝したのも50年9月の大阪。大阪は自分にとって、験のいい土地だが、その原因は何か?と言われても全く分からない」と笑いながら上機嫌に答えている。

 189センチ、145キロの恵まれた体格で、左四つになると抜群の強さを見せた。反面、足腰はもろく簡単に敗れるなど、好不調の波が激しかった。ただ、太い眉毛と濃い胸毛が印象的で、週刊少年マガジン創刊号の表紙を飾ったり、映画にも出演するなど、人気を博した。綱を張ってからは、脊椎分離症にも悩まされ、思うような成績は残せなかった。しかし、横綱在位唯一の優勝が61年春場所で、大阪太郎の面目を保った。(久浦 真一)

 ◆朝汐 太郎(あさしお・たろう)本名・米川文敏。1929年11月13日、現在の鹿児島・徳之島町生まれ。48年10月、初土俵。51年1月、新入幕。62年1月、引退。最高位は横綱。通算成績501勝270敗101休。得意は左四つ、寄り。優勝5回。しこ名は60年7月場所から朝潮。引退後は、高砂部屋を継承し、元大関・小錦らを育てる。88年10月23日、死去(享年58)。

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