“馬場派”松山千春が「アントニオ猪木お別れの会」で来賓代表を務めた訳を語る…金曜8時のプロレスコラム

「アントニオ猪木 お別れの会」に来賓代表として献花した松山千春(カメラ・荒牧 徹)
「アントニオ猪木 お別れの会」に来賓代表として献花した松山千春(カメラ・荒牧 徹)

 昨年10月1日に亡くなったアントニオ猪木さん(享年79)の「お別れの会」(報知新聞社など後援)が7日に東京・両国国技館で開かれ、実弟の啓介さん(74)、長女の寛子さん(48)ら遺族と“猪木信者”と呼ばれる関係者、ファン7000人が献花した。新日本プロレスの坂口征二相談役(81)が発起人代表として開会を宣言。そして来賓代表を務めたのが歌手の松山千春(67)だった。

 プロレスファンなら意外に思った人も多いはずだ。松山は筋金入りの“ジャイアント馬場派”として有名だったからだ。式典では森喜朗元首相(85)、弟子の藤波辰爾(69)、古舘伊知郎アナ(68)らがスピーチしたが、松山は来賓代表として献花すると、コメントを残すことなく国技館を後にした。

 閉会からしばらくして話を聞くことができた。「馬場派の松山さんがなぜ」の疑問に「日本プロレスを力道山さんが作られて、馬場さんと猪木さん、ずーっとライバルとしてやってたという姿を見てきました」とBI砲の時代からのファンであることを強調した松山。猪木さんとの交流は「もちろんありましたね」と話す。1999年1月31日に馬場さんが亡くなってからも、馬場ファンに気遣い、猪木さんとの交流は公には見せてこなかった。

 突然、猪木さんから電話がかかってくることもあったという。

 「元気ですかー」

 「どうしたんですか?」

 「今、千春さんの実家の方(北海道・足寄町)を通ってますので、一応ごあいさつだけはしておかないと」

 「いや、そんなあいさついらないですよ。気をつけてくださいよ」

 会話を振り返り「無邪気な人でしたね。あの無邪気さとあの情熱にみんなひかれていったんじゃないですかね」と笑った。

 今回の「来賓代表」は、親交のある春次賢太朗氏(春次メディカルグループ理事長)から懇願されて受諾した。春次氏は猪木さんがスポーツ平和党を結党し、1989年夏の参院選に出馬した時に猪木さんに次いで比例代表名簿第2位だった同志。春次氏に促され、松山は肩の力を抜いて猪木さんについて語った。

 「馬場さんと猪木さんは、天国で仲良くやってると思いますよ。(興行戦争や引き抜きなど)過去のいきさつはいろいろあったとしても、やっぱり同じプロレスで名を馳せた人間ですから」

 「俺が馬場さんの控え室にいた時、猪木さんが国会議員としてあいさつに来るわけですよね。実に兄弟弟子というか。馬場さんが『カンちゃん(猪木さんの本名・寛至)は葉巻吸うよな。これ一つ持ってけよ』って。その時はもうそういう仲でやってましたから。お互いないものねだりだったんだと思いますよ」と90年代の舞台裏を明かした。

 1990年4月13日に東京ドームで開催された「日米レスリングサミット」では、日本テレビの中継で、馬場さんの試合をゲスト解説した松山。「あの後、スタン・ハンセンと飯を食ったんですけど、マットの上ではすごい生き死にの戦いやってたのに、飯食ってる時は笑いながらね、ものごっつい食べるんですよ。あの時代は面白かったなと思いますね」

 馬場・全日本と新日本がWWF(現WWE)との日米合同興行で手を結んだ歴史的大会だった。当時は猪木さんから新日本の社長を受け継いだ坂口氏の功績がクローズアップされたが、猪木さんと馬場さんが裏でしっかりつながっていたことを、33年後に松山千春から教えられた。(酒井 隆之)

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