昨年10月1日に79歳で亡くなった不世出のプロレスラー、アントニオ猪木さんの「お別れの会」が7日午前11時から両国国技館で行われる。
会は、猪木さんの肖像権などを管理する猪木元気工場(IGF)と猪木さんが創設した新日本プロレスが共催。発起人を新日本の坂口征二相談役が代表を務め、政界から森喜朗元首相、野田佳彦元首相、芸能界からケイダッシュの川村龍夫会長、プロレス界からグレート小鹿、藤波辰爾、藤原喜明、初代タイガーマスクの佐山サトル、武藤敬司、蝶野正洋ら総勢56人が賛同した。
会は2部制で行われ、関係者が参列する午前11時からの第1部は、一般のファンはチケット(1万円)を購入して参列できる。午後2時に開場となる第2部(午後5時終了予定)は、チケットを持ってない一般の献花を受け付ける。
昨年10月の死去から弟子、知人、友人、家族らが猪木さんの様々な秘話を打ち明けてきたが、スポーツ報知はこのほど、1972年10月にスタートし2000年6月に終了した日本テレビ系「全日本プロレス中継」初代プロデューサーで日本プロレス時代から親交があった元日本テレビ常務、元福岡放送会長の原章さん(85)を取材。猪木さんが新日本を旗揚げした1972年にハワイで永遠のライバルと評されたジャイアント馬場さんと知られざる遭遇を明かした。
原さんは、力道山が全盛期の1961年に日本テレビに入社し、当時、金曜夜8時に中継されていた「日本プロレス中継」のディレクターとなる。ここでデビューまもない若手だった猪木さんと出会い、以来、親交が生まれた。
中でも猪木さんの必殺技「卍固め」は、猪木さんの許可を得た上で番組プロデューサーとなっていた原さんが発案しで1969年1月に「日本プロレス中継」の番組内で視聴者に名前を募集。結果、「卍固め」と命名するなどリング内外で深い関わりがあった。
しかし、猪木さんは71年12月に「会社乗っ取り」を理由に日プロを追放され、翌72年1月に新団体「新日本プロレス」を設立。一方、日本テレビは72年5月に日本プロレス幹部が放送に関する取り決めを破ったことで「日本プロレス中継」を打ち切る。そして、同局は、日プロの絶対的なエース、ジャイアント馬場さんに全面支援を約束し新団体の設立を促した。結果、馬場さんは「全日本プロレス」を立ち上げ、日テレは、同年10月の旗揚げから土曜午後8時から「全日本プロレス中継」をスタートした。こうした経緯で原さんと猪木さんの関係は途切れてしまった。
この間、同局が「日本プロレス中継」を打ち切った直後に旗揚げ一年目でテレビ中継がなかった猪木さんは、水面下で原さんと面会し「新日本プロレス」の中継を要望したという。しかし、この時点で日テレは馬場さんの新団体設立へ動き出していたため、原さんは猪木さんの願いを受け入れることはできなかった。
日本のプロレス史において激動の1972年。そして、今回、原さんは、これまで語らなかったこの年の夏に起きたハワイでの出来事を打ち明けてくれた。
当時、馬場さんと共に新団体設立へ奔走した原さん。参戦する外国人を確保するため共に渡米した。ビジネスがまとまり帰りにハワイへ立ち寄った時だった。原さんが回想する。
「私は、馬場さんと当時は婚約中だった妻の元子さんとアラモアナのショッピングセンターに行ったんです。そこに紳士服の店がありまして、店の奥の方で私はスーツを見ていました。そうすると、店の入口で馬場夫妻と誰かがにぎやかに話をしているんですね。“誰だろう?”と思って、目を移すと馬場夫妻と話をしていたのは、猪木さんと当時の奥さんだった倍賞美津子さんだったんです。馬場さんと猪木さんは仲が悪いとか言われていますけど、あの2人は仲がいいんです。実際、あの時は、たもとを分かっていたんですが、楽しそうに談笑していたんですから」
馬場さんと猪木さんが談笑したアラモアナ。原さんは、猪木さんに馬場さんと共に行動しているところは見られたくなかった。当時、公には馬場さんと新団体設立へ日テレが動いていることは極秘だった。ましてや、猪木さんには中継を打診されたが断った経緯がある。原さんの胸はざわめいた。
「私は“猪木さんに馬場さんと一緒にいるところを、見られたらヤバイ”と思いましたが、店には裏口もなくて隠れることはできません。観念して入り口を出て、猪木さんと会いました」
原さんは、猪木さんが不快感と不信感を表に出すことを覚悟した。そして、馬場さんと談笑する猪木さんの前に姿を見せた。果たして、猪木さんの態度は予想外だった。
「私と会った時、猪木さんは満面の笑みで“やーやー、どうも、どうも”っていう感じで迎えてくれたんです。恐らく心の中は、私が馬場さんと一緒にいたことは、とてもショックだったと思います。実際、隣にいた倍賞美津子さんの顔は硬直していました。恐らく夫婦ですから“日テレが放送してくれるかも”とか話をしていたと思うんです。だけど、私は猪木さんの願いを断って馬場さんとビジネスをしていたんです。倍賞さんの顔が硬直するのも無理はありません。しかし、猪木さんは一切、そんなそぶりを表に出さず笑顔で迎え入れて、笑顔で別れたんです。その時、私は胸の中で“寛ちゃん、ごめん”と手を合わせました」
1972年夏のハワイ。馬場さんと猪木さんの遭遇。原さんは、燃える闘魂の笑顔が今も焼き付いている。
「しかも猪木さんは、私が馬場さんと行動していることを口外しなかったんです。公にすれば、全日本を立ち上げる妨害工作もできたはずなんです。だけど、一切、黙っていた。それだけに私は余計に後も“寛ちゃん、ごめん”と思ったんです。その思いは今も変わりません」
全日本プロレスが旗揚げし猪木さんと馬場さんは、ライバル団体として激しく対立した。そんな苛烈な興行、視聴率戦争の中でも原さんは、猪木さんと「たまに会っていました。食事した後に私の誕生日にコニャックをプレゼントしてもらったこともありました」と振り返った。
2015年6月に原さんは、福岡放送の会長を退任した。大役を終える時、社員が送別会を開いてくれた。ちょうど、その日に猪木さんが選挙の応援演説で福岡に来ていた。原さんは、猪木さんに退任のあいさつをするため演説会場へ足を運んだ。しかし、多忙で会うことはかなわなかった。
その日の夕方。送別会が開かれた会場。予期せぬ人物が大きな花束を抱えて現れた。
猪木さんだった。
原さんの来訪を知った猪木さんは、送別会が行われることを聞き、多忙なスケジュールの合間を縫ってサプライズで駆けつけたのだ。原さんに花束を手渡した時、猪木さんはあのアラモアナと同じ満面の笑みだった。
「わざわざ猪木さんが来てくれたんです。でっかい花束を持ってきてくれてね…。そして、あの笑顔です。猪木さんには、そういうところがありました。とにかく人を喜ばせたい人なんです。私にとって感謝、感激しかありませんでした」
3・7両国国技館。「お別れの会」。笑顔の猪木さんが待っている。
(福留 崇広)
コラムでHo!とは?
スポーツ報知のwebサイト限定コラムです。最前線で取材する記者が、紙面では書き切れなかった裏話や、今話題となっている旬な出来事を深く掘り下げてお届けします。皆さんを「ほーっ!」とうならせるようなコラムを目指して日々配信しますので、どうぞお楽しみください。