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早大OB・赤堀 正司さん(60)
箱根駅伝史に残る名シーンのひとつが1985年大会の「吹雪の6区」だ。2日の往路は新春の晴天の下、行われたが、3日は一転、大雪に見舞われた。
前年大会で30年ぶりの優勝を果たした早大はこの年も戦力が充実。往路では2区のエース遠藤司さん、5区の木下(現・金)哲彦さんらが好走し、2位の順大に4分22秒の大差をつけて圧勝した。連覇に向けて順調に往路を終えたが、復路では一抹の不安があった。前年、6区5位と好走した越智房樹さんがレース1週間前に故障して欠場。代役を担ったのが、最初で最後の出場となる4年生の赤堀さんだった。
箱根駅伝出場を目標に、愛知・岡崎城西高から一般入試を経て教育学部に入学。「3年時まで2軍でした。同期の越智君が箱根駅伝を走って優勝メンバーになったことが刺激になり、4年目に心を入れ替えました。思い切り走るのもあと1年しかない、と」。4年目にして初めて1軍の夏合宿に参加した赤堀さんは秋以降、急激に成長した。9月の早慶戦5000メートルで公式記録として初の14分台をマーク。しかも、14分35秒と大幅に自己ベスト記録を更新した。
いよいよ迎えた箱根駅伝。ナンバーカード「12」で補欠登録された赤堀さんは当日変更で7区に出場予定だったが、チーム事情で6区に変更。山下りという特殊区間にもかかわらず「コースの下見は全くしていませんでした」と明かす。さらに大雪という特殊な条件も加わった。
4分22秒差から大逆転優勝を狙う順大は、6区に前回区間賞の羽柴卓也さんという切り札を擁し、差を詰める、あるいは一気に逆転を狙っていた。「早大のチームメートたちは不安だったと思いますよ」と赤堀さんは苦笑いで振り返る。
1985年1月3日。各校の6区のランナーが起床した午前3時頃はチラチラと降っていた雪は、スタートの午前8時には大雪へ変わっていた。「スタートして50メートルの左折で、いきなり滑った。これはヤバイと覚悟した」。箱根山中の国道1号線はうっすらと白くなり、当時、自衛隊の協力で選手を追走していた監督車のタイヤにはチェーンが巻かれていた。
箱根駅伝を最後に競技の第一戦から離れることを決めていた赤堀さんは初の大舞台にすべてをぶつけた。それでいて、落ち着いていた。「最短距離を走りたかったけど、車のタイヤ跡以外は滑るので走れなかった。横断歩道の白の塗装部分は特に滑るので気をつけました」。吹雪の6区を1時間1分38秒で走破し、区間3位。区間賞を獲得した順大の羽柴さんに21秒詰められただけで耐えたことで、早大は一度も首位を譲ることなく、2年連続11度目の総合優勝を成し遂げた。
首位を死守し、7区の伊藤雅弘さんにタスキを託した時の心情を38年たった今もはっきりと覚えているという。「やりきった。思い残すことはない」。
赤堀さんの情熱が箱根の雪を少なからず溶かした。(竹内 達朗)
◆赤堀 正司(あかほり・しょうじ)1962年7月15日、愛知・岡崎市生まれ。60歳。中学時代は水泳部で全国大会に出場。岡崎城西高入学と同時に本格的に陸上競技を始める。1年時に2種目で全国高校総体に出場も2、3年時は東海大会で敗退。81年に早大教育学部に入学。85年に卒業し、旭化成に一般就職した。現在は関連会社の旭化成不動産レジデンスに勤務。