武藤敬司2・21東京ドーム「引退大会」…取材して思った「終わらない」プロレス…記者コラム

オカダ・カズチカに敗れドームのリング上で大の字になった清宮海斗。この姿に「未来」が詰まっている(写真提供・プロレスリング・ノア)
オカダ・カズチカに敗れドームのリング上で大の字になった清宮海斗。この姿に「未来」が詰まっている(写真提供・プロレスリング・ノア)

 武藤敬司の2・21東京ドームから1週間あまりが経った。

 ドームには3万96人の大観衆が詰めかけ、内藤哲也、蝶野正洋と2連戦の引退試合で昭和、平成、令和と時代を越えてプロレス界のトップを驀進したスーパースターはリングに別れを告げた。

 ドームには、武藤さん、蝶野、そして亡き橋本真也さんとの「闘魂三銃士」で90年代の黄金時代にプロレスに熱中した40代、50代以上の「かつての」ファンが数多く会場に運んだという。今のプロレスを見ていない人々に大きな感動を与えたのは、武藤と蝶野のサプライズマッチだっただろう。武藤と蝶野がロックアップした瞬間にうねりのように沸き起こった歓声は、その証明だった。2人の戦いに「90年代」のプロレスを思い出し、さらには、それぞれの「青春」もよみがえり、胸が熱くなったのだろう。そこにあったのは「ノスタルジー」だった。

 引退試合が終わってから私の周囲での反響は、大きな感動と同時に耳にする言葉は「終わった」との声だった。

 「これで満足。もうプロレスを見ることはない」「昭和プロレスが終わった」「オレにとってのプロレスが終わった」

 私自身、昨年6月に武藤さんが引退を発表してから耐えがたい寂しさがあった。そして、10月1日にアントニオ猪木さんが79歳で亡くなった。武藤さんの引退に猪木さんの訃報。小学1年生の1975年からプロレスを見続けてきた私にとって2人の巨星を相次いで「失った」ことは「2・21ドームでオレにとってのプロレスは終わる」と覚悟した。

 そして、2・21を取材した。あれから9日が経つ。今、思うことはひとつだった。「2・21はノスタルジーではない。紛れもなく新しい船出だ」という希望だ。

 それを教えてくれた人が3人いる。1人は、清宮海斗だ。プロレスリング・ノアの最高峰であるGHCヘビー級王者の26歳は、団体にとって18年ぶりに帰還した東京ドームで新日本プロレスのIWGP世界ヘビー級王者オカダ・カズチカと対戦した。人気、実績…すべてにおいて上回る現在のプロレス界のトップを振り向かせ、一騎打ちを実現。試合形式が30分1本勝負から時間無制限一本勝負へ変わる完全決着戦に挑み敗れた。

 分厚い壁に果敢に挑む姿は希望しか感じられなかった。オカダを追い詰めた「タイガースープレックス」はこれまで見たどの技よりも鬼気迫る「本気」が伝わった。内容はもちろんだが「負けた」という結果に私は希望を見た。

 武藤さんは言った。

「プロレスってはい上がるドラマなんだよ。ハッピーエンドばっかりじゃドラマにならない。踏まれてはい上がるところが面白ぇんだよ」

 オカダに敗れたリング上。大の字になった清宮は、ドームの真っ白い天井を見上げた。今は、果てしない高さにいるオカダにいつの日か追いつき、越える…。清宮にとって2・21は、はい上がる船出になった。大の字になった清宮に私は「終わり」ではなく「始まり」を見た。

 2人目は、引退試合をPPVで生配信した「ABEMA」で格闘チャンネル担当の北野雄司エグゼクティブプロデューサーだった。私は試合前日の20日に北野氏を取材した。話を聞くと、北野氏は一切、過去に触れなかった。言葉からあふれ出る思いは、2・21以後のプロレス中継への可能性と未来だった。北野氏は「武藤敬司引退試合」のPPVを起爆剤に映像文化で新たなプロレス中継への展開を描いていた。

 そして、2・21のPPVは過去の「ABEMA」におけるプロレス興行での最高券売数を記録した。この成功は、これからのプロレスの大きな光となった。

 プロレスリング・ノアの武田有弘取締役もその1人だった。武田氏は今回の引退興行をプロデュースした。ドームでの開催を決断したのも武田氏だった。コロナ禍もあり、観客動員で苦戦しているノア。絶大な人気と功績を残した武藤の引退試合とはいえ巨大アリーナの東京ドームでの開催は無謀だった。しかし、武田氏は「武藤さんを盛大に送り出したい」との武藤への感謝と敬意。そして「プロレスの底力をここで見せる」と決意し「無謀」なドーム開催へ突き進んだ。目指したのは「プロレス史上最大の夜」。新日本、全日本、DRAGON GATEなど他団体の参戦を導き、プロレス界の総力を結集する大会をプロデュースし3万96人の観客を動員した。

 武田氏が思いを馳せ、突き動かしたのはアントニオ猪木さんの行動力だった。

 1989年4月24日。プロレス界初のドーム興行を決断したのは当時、新日本プロレス社長だった猪木さんだった。この時の新日本は後楽園ホールでの大会も満員にならない苦境に陥っていた。それでも猪木さんはドーム初進出を決断した。社会主義が崩壊したソ連から初のプロレスラーを招き社会的にも大きな話題を提供し4万人を超える観衆をドームに集めた。「踏み出せば、そのひと足が道となり、道となる。迷わず行けよ、行けばわかるさ」の境地そのままに行動し「無謀」と思われたドームを成功させ、以後、プロレス界に「ドーム興行」を定着させた。

 先人への敬意を抱き、ドーム興行へ驀進した武田氏が2・21で描いた世界は、実は武藤敬司の「終わり」ではなく、プロレス界の「これから」だった。

 「プロレスは、本当にすばらしいジャンルでどの分野にも胸を張れる。そのことを今のファンはもちろん、かつてのファンの方々に改めて知って欲しい。それはビジネス的にも同じで、ビジネスとしてまだまだ可能性と成長するジャンルだということを見せたい。そのためにも、ドームでやることが重要だったし、やって良かったと思います」

 清宮、北野氏、そして武田氏。3人を取材して私は、プロレスの歴史と法則に思い至った。

 プロレスの歴史は常に「終わり」が「始まり」となる繰り返しなのだ

 1984年9月に長州力らが大量離脱した時、「新日本は終わった」と私は思った。しかし、その翌月に武藤、蝶野がデビューし新たな星が誕生した。88年3月には新日本を中継したテレビ朝日、全日本を放送してきた日本テレビが同時にゴールデンタイムから撤退。テレビのプロレスは「終わった」と観念したが、リング上では新日本は「闘魂三銃士」、全日本は「四天王プロレス」が生まれ、興行は、ゴールデンタイム時代をはるかに上回る活況を生み黄金時代を築いた。

 ジャイアント馬場さん、橋本真也さん、三沢光晴さん…絶大な功績を残したトップ選手の現役での急逝は、絶望にたたき落とされたが、先人の遺志を受け継いだレスラーが戦いを続け、リング上は、命の灯が絶えることはなかった。

 プロレスは常に「終わり」と「始まり」を輪廻(りんね)転生させ、生き続けてきた。そして、マイナスがプラスになるパワーを持つ。逆にプラスがマイナスになる怖さもある。

 思えば、1963年12月15日、プロレスをこの国にもたらし、絶大な国民的スターだった力道山が39歳で急逝し多くの国民が「プロレスは終わった」と確信した。恐らくプロレス史上、これほど大きな喪失感はなかっただろう。しかし、プロレスは終わることなく馬場さん、猪木さんの新しいスターが国民を引きつけプロレス興行を進化させた。

 力道山が亡くなった時、日本テレビで「日本プロレス中継」のディレクターで後に「全日本プロレス中継」の初代プロデューサーとなった原章さんがこう回想する。

 「力道山が亡くなって、日本中が“プロレスは終わった”と思ったんです。ところが、我々はまったくそんなことを思ってなかったんです。まずスポンサーだった三菱電機がすぐに“続ける”と方針を固めた。日本テレビも正力(松太郎)さんがプロレス中継は“やる”と決断したんです。スポンサーと局のトップが即断したので、我々、スタッフは“これからもプロレスを続ける”と誰もが決意したんです」

 70年前の当時と現在では、プロレスの人気に格段の差があることは事実。ただ、大きな歴史が終わっても「続ける」と決意した情熱は不変ではないか。力道山時代の大スポンサーだった「三菱電機」が今は、ノアの親会社でIT大手「サイバーエージェント」で「日本テレビ」が令和時代の「ABEMA」だろう。そして、団体、レスラーは前だけを見つめ戦い続ける限りプロレスに「終わり」はない。

 2・21ドームを取材して最も印象的だったのは、リングを支えたスタッフの輝きだった。3万人を超えるイベントを開催した誇りと自信がみなぎっていた。そして、「武藤敬司引退大会」の成功が新たな目標となったはずだ。レスラー、そしてスタッフ…それぞれ自らが体感した具体的なハードルは、これからのノア、そしてプロレス界全体にとって大きな糧になる。

 「3万96人を超える観客を呼ぶ」

 「PPVで新記録を刻む」

 この未来が現実になった時、武藤さんは「真っ白な灰」になる。

 (福留 崇広)

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