あの日テレビの前で胸を躍らせた名勝負、レジェンドが振り返るあの一戦から、世界最大のプロレス団体WWEで活躍中の日本人スーパースターの最新情報まで、プロレス&格闘技の様々な情報をお届けする「ファイト報知」。担当記者の熱がこもった原稿をお楽しみください。
東京ドームで引退した武藤敬司。光り輝くリングを支えたのは久恵夫人だった。1992年3月3日の結婚から内助の功に徹した妻がスポーツ報知の取材に応じ、夫の「素顔」とストイックなまでの「日常」、そしてリングを去った夫への思いを告白した。
【出会い】
私は、蝶野正洋さんと中学1年生(東京・三鷹市立第五中)の時に同級生だったんです。
それが縁で90年8月に後楽園ホールで新日本プロレスの試合を観戦した時に主人と出会いました。生でプロレスを見たのは、この時が初めてだったんですが、リングで戦う姿は「華がある選手だな」と思いました。
【結婚】
お付き合いが始まり、「結婚しよう」とプロポーズを受けたある日、主人の自宅で私がナポリタンのスパゲッティを作ったことがあったんです。ところが、彼の家にはお皿がなくてプラスチックのお皿を買ってきて、大量に作ったパスタを運んでいた時、滑ってパスタを床に落としてしまったんです。その時、彼は私を一切、とがめることなく「オレ、食うよ」と言って床に落としてしまった手作りのスパゲッティを上の方だけお皿に取って食べてくれたんです。
普通なら文句を言うと思うんですが何も言わずに落ちたパスタを食べる彼を見た時に「何て優しい人なんだ」と彼の本当の人柄に触れて心を揺さぶられ「この人と結婚をしよう」と思いました。そして、92年3月3日に婚姻届を提出しました。
91年の暮れには川崎市内に自宅を購入し一緒に生活が始まっていました。私の両親に結婚のあいさつをした時に父が「君の目はきれいだ。信じられる人間だ」と言ったんです。その言葉を聞いた主人は「オレは信じられる人間です」って即答してみんなで笑った思い出があります。
お付き合いした時から両膝にケガを負っていることは知っていました。膝が悪い主人は「オレは間もなく引退する」と言っていたんです。ですから私も「早めに引退するんだな」と思っていました。それが、まさかこんなに長く現役を続けるとは、思いもしませんでした。
【ルーチン1(朝)】
主人は生活のすべてをプロレスにささげています。ですから、肉体を進化させケアするために日常生活は完璧なルーチンがあるんです。
まず、朝は必ず5時半に起きます。私は、前の晩に5時10分にご飯が炊けるように炊飯器をセット、おかずも用意して寝ます。
主人は夜10時半にはベッドに向かうんですが、私は子どもたちの食事、片付けなどがありますので、就寝時間が遅くなるんです。ですから朝は「別々に起きていいよ」と主人に言ってもらって、朝食の用意を前の晩に調えるんです。
主人が自宅でもなるべく歩く負担を減らすためにタイヤの付いた高椅子があります。だいたい、この椅子に乗ってキッチンで冷蔵庫に用意したおかず、ごはんを自分でよそってダイニングテーブルまで移動するんです。
ご飯は、決まったお茶碗があるんです。それは結婚して間もないころに橋本真也さんからプレゼントされた有田焼の青いお茶碗なんです。別のお茶碗で出すと「これじゃなきゃ嫌なんだ」と言うぐらいお気に入りなんです。大きさや角度、よそえるご飯の量なんかが「ちょうどいいんだ」と言っています。このお茶碗で必ず2杯食べます。
おかずも決まっています。味噌汁に生卵、納豆、梅干し、漬け物、あとは明太子などの珍味です。生卵は卵掛けご飯を食べるため、梅干しは蜂蜜漬けじゃなくて、シソがたっぷりのしょっぱいものじゃないといけません。これにプロテインが入ったダノン・オイコスのヨーグルトにチーズ。最後にコーヒーを飲むのが毎日の朝食のルーチンです。
朝食を終えると午前7時15分から45分までNHKのBSプレミアムで朝ドラを見ます。今は「本日も晴天なり」の再放送を見てから「舞いあがれ!」を毎朝、楽しんでいます。
【ルーチン2(練習)】 朝ドラを見て少しのんびりしてから練習のため車でジムへ向かいます。ジムは、午前9時にオープンするんですが、だいたい8時25分に家を出ます。それは、ジムの駐車場に自分が決めている場所があるからです。そこにとめないと気が済まないので早めに行くんです。そして、オープンまでの時間を車内でテレビを見たり、スマホをいじったりして過ごします。練習は徹底的に追い込みます。以前は私も同じジムに通っていたんですが、主人の練習があまりにも激しくて見ているのがつらくなり、別のジムに変えました。
【ルーチン3(ランチ))】
練習が終わると帰宅して必ず午後1時半から食事をします。メニューは、お昼ご飯だけは自由に麺類からシチュー、魚や肉を焼いたりさまざまです。その後にフルーツを食べて、しばらく休みます。
【ルーチン4(夜)】
夕食は午後6時半から7時の間で決まっています。おかずは8種類ぐらい作りますが高タンパク、低カロリーなものをお願いされます。最近は「生野菜より好きだ」というので温野菜を多く出しています。夜は炭水化物類は一切、取りません。ご飯はもちろん、じゃがいもなんかの芋類も食べません。主人の食事は、ほとんど家で私が作ったものを食べて、常にレスラーとして体を作ることを主眼に置いているんです。朝、昼、夜と3食すべてを考えているからこそ、60歳でもあそこまでの肉体を作ることができていると思っています。
それは、朝も夜も食事を取る時間にも表れています。なぜ、朝5時半に起きるか、なぜ夕方の6時半から7時に夕食をとるか。これは食べたものが体の中で消化する時間を計算しているからです。食事はだいたい3時間で消化すると言われていますから、朝はトレーニング、夜は寝るまでの3時間前に食事を取ることを決めているんです。もちろん、試合の日や芸能関係などの仕事がある場合はそうならない日もありますが、ほぼ毎日、このルーチンを守っています。ここまで完璧にしなければあの肉体を保つことはできないんです。
【就寝】
今の自宅を作った時に寝室を2階にしたんですが、やはり膝が悪くて階段を上ることが大変なので1階の部屋が主人専用の寝室になりました。夜11時には眠るんですが、冬場は、寝る前に私は布団乾燥機をかけて布団を温めます。時間はだいたい30分です。それが終わると乾燥機を外して主人を呼んで寝かせます。息子と娘からは「そこまでやることないよ」と言われますが(笑い)、主人にゆっくり休んでもらいたいと思っていますので毎日、私は布団を温めています。
【勝負飯】
ここ数年、試合の時は必ずカレーを食べます。温めればいつでも簡単に食べられるから、それが安心みたいです。カレー粉は50パーセントカロリーオフのものを使っています。それだけじゃタンパク質が足りないと言ってゆで卵をいくつか食べます。家で小腹がすいた時は、ゆで卵を食べることが多いですね。
引退試合のこの日もいつもと変わらずカレーでした。鶏肉と豚肉にナスを入れたカレーを1杯食べてドームへ向かいました。
【スキンヘッド】
2000年12月31日に大阪ドームでの「猪木ボンバイエ」での試合(高田延彦と組んでドン・フライ、ケン・シャムロック戦)でスキンヘッドに変身しました。この年は6月からWCWと契約していたので、日本での試合は約半年ぶりでした。主人は久々の日本でのリングだったので当時住んでいたアトランタの自宅で「変身していきたい」とスキンヘッドにすることを決断したんです。
ただ、米国ではスキンヘッドにしてくれる理髪店が見つからず、ホームセンターでバリカンを買って私が頭を丸めました。それからは、本人が2日に1回か3日に1回、ルーチンがあるみたいでお風呂場でカミソリを使って自分で剃っています。
スキンヘッドにした時に髪の毛の代わりにひげを生やしてデザインすることも自分の中でイメージを作り上げていました。ひげは、毎週土曜に時間を決めて同じ理髪店でカットしています。これもこだわりがあっって「その人にやってもらわなきゃダメなんだ」と言って、毎週通っています。
【全日本プロレス移籍】
2002年1月に新日本を離れて全日本へ移籍しました。私自身は正直に言って新日本を離れるのは怖かったです。主人から「今までお付き合いした人もたくさんいたけど、それも一切なしにしてほしい。年賀状も出さないでくれ」と言われた時は切なかったです。ただ、それぐらいの覚悟を固めて決別したんです。
移籍するまでの経緯は私は介入していませんから分かりません。どっかで一国一城の主になりたいという野心もあったと思います。全日本時代は、社長に就任して経営者としては大変でしたが、武藤敬司の歴史を語る上ではとても重要な時間だったと思います。それは、後輩のレスラーをたくさん育てて、武藤イズムを引き継いでくれているレスラーが今、たくさんいるからです。主人に憧れて、背中を見て追いかけたレスラーがたくさんいる現実。それは、主人が苦労をしたからこそ、いろんな意味で多くの方々へ影響を与えたんだと思います。
【グレート・ムタ】
WRESTLE―1が始まってから、試合の用意、コスチュームの洗濯は私がやっています。ただ、ムタの試合の時は毒霧が仮面に付くので、ウェットティッシュで落とすのが大変なんです(笑い)。手に赤とか緑がついて、手荒れがひどくなるのでムタは私にとって強敵でした(笑い)。
【ムーンサルトプレス】
主人は、2018年3月に両膝の人工関節置換手術を行って、19年6月に復帰しました。すべては、主治医の(苑田会人工関節センター病院長の)杉本和隆先生との出会いのおかげです。杉本先生のご尽力がなければ、主人はあそこで引退していたと思います。先生には心から感謝しています。
手術前に先生からは両膝に重大な負担がかかる「ムーンサルトプレス」は術後、禁止を宣告されました。それなのに21年2月12日の日本武道館での潮崎豪選手との試合でトップロープに上ってやろうとしたんです。息子と娘と2階席で見ていたんですが、あの瞬間は焦りました。息子は「母さん、止めてよ!まずいよ!」って叫び、娘も「ダメだよ!」って悲鳴に近い状態でした。結果、やらなかったのでホッとしましたが、あの時は本当にひと安心しました。試合後の主人に私も子どもたちも「二度とやらないでよ!さよならムーンサルトプレスにしてください」とみんな怒って懇願しました。
それで主人も「二度とやらない」と約束したんですが…4か月後の6月6日の丸藤正道選手との試合でやってしまったんです。
この試合は会場で観戦していなくて、SNSを見ていたらムーンサルトプレスの映像が流れていたんです。「過去の映像かな」と思っていたら、その日にやったと知ってビックリしました。この時はさすがに帰宅した主人の顔を見た瞬間にすごい怒りました。主人は「仕事に口をはさむんじゃねぇよ」って言いましたが、その後に杉本先生のところに定期健診へ行くのが「怖い」と言ってました(笑い)。案の定、杉本先生からは『男と男の約束を破りましたね』と言われて、「今回はどうにかケガをしなかったけど、もしやれば寝たきりになる可能性もあります。そしたら、ご家族がどれだけ大変になるのか。それだけは分かって下さい」と諭されました。
【引退決断】
両膝を人工関節にして何十年ぶりかでまっすぐに立てるようになりました。痛みから解放された主人は毎日のトレーニングをそれまで以上に追い込んだんです。その結果、股関節を痛めて引退することになりました。引退は昨年の5月に決めたんですが、その前から杉本先生は私に「体中のあらゆるところが満身創痍(そうい)です。そろそろ(引退を考える時)ですかね」と言われていたんです。主人は試合を『作品』と表現します。作品というからには、語り継がれる美しさがなければいけないというプロレスへの哲学があります。そういう意味で私もこれ以上続けることは、武藤の美学に反すると思っていました。杉本先生も股関節のケガについて「治せるものと治せないものがあります。股関節を人工関節にしたらプロレスは続けられなくります」と言われて主人は引退を決断しました。
ケガがなければやめたくないほどプロレスが好きなんです。24時間すべてプロレスのことを考えています。すべての生活で見るもの、聞くもの…すべての中からプロレスへのヒントを得て参考にしています。私は、そういう姿をずっと見てきて主人はプロレスという天職に出会った人なんだなと思っています。だけど、そんな大好きなプロレスを辞めなければならない。股関節のケガはそれほどの痛みで主人の中で限界があったんだと思います。私は引退を決めてくれてホッとしました。ただ、主人は常にプロレス界の発展を考えています。そのためにも自分の足で歩いてリングを降りることがこれからの未来につながると思います。
【夫・武藤敬司へ贈る言葉】
少しわがままなところはあるけど、優しくて根本は正直でうそをつかない誠実なところが出会った時から今もずっと好きです。
長い間、本当にお疲れさまでした。頑張り過ぎるぐらい頑張ってきたので、しばらくゆっくりしてください。
2月22日からが人生の第2章ですね。これまでは、何をするかを語り合ってきませんでしたが私は、また何か新しい挑戦をするんじゃないかと思っています。それと、トレーニングは続けると言ってますので、これからも妻としてルーチンを守って支えていきますね。
(談)
◆武藤 久恵(むとう・ひさえ)旧姓・芦田。1963年6月24日、杉並区生まれ。59歳。高校卒業後にモデル事務所に所属しタレントとして活動。84年9月には「ギ・ラロッシュきものパリ」のシンデレラコンテストで準シンデレラに選ばれる。90年8月に武藤敬司と出会い92年3月3日に婚姻届けを提出。同年10月4日に京王プラザホテルで挙式披露宴。一男一女の母。現在、武藤の個人事務所「株式会社MUTO OFFICE」の代表取締役社長を務める。