1930年の箱根駅伝で日大は最下位の9位に終わっている。28年、29年と連続3位と上げ潮ムードだったが、優勝した早大から約2時間15分遅れ。往路では一時トップに立ち、9区スタートの時点では2位だったが、同区で悪夢がチームを襲った。
同区の区間記録保持者だった早瀬道雄が鶴見まであと2キロの生麦付近で転倒。立ち上がれなくなった。当時は途中棄権という制度がなく「走行不能となったら、補欠選手が中継所から再スタートする」というルール。伊藤祐之を戸塚に戻してスタートし、同区の記録は3時間19分50秒に終わった。
戦後に交通状況の影響も考慮し、レース続行不可能の場合は途中棄権となった。なお、日大はその後、チーム力を付けて32年大会で初の往路優勝。35~38年には、“元祖・山男”鈴木房重らの活躍で大会4連覇を達成するなど第1次黄金期を築いた。