日本版「ロスト・ボールパーク」誕生! 山本勉公式記録員がNPB公式戦開催の失われた球場を辿る「球跡巡り」を出版

スポーツ報知

 日本野球機構(NPB)の山本勉公式記録員がNPB公式ページで連載しているコラム、役割を終えて閉鎖された球場を辿る「球跡巡り」を一冊の本にまとめ、理工図書(1800円+税)から出版した。

 連載当初からこれは面白いと熱烈な読者だった私は早速、アマゾンで注文。あっという間に読み終えた。コラムで読んでいたものだけでなく、初めて読む球場の歴史に改めて感心させられた。

 古本屋巡りが好きだった私はスタジアム研究の第一人者である沢柳政義さんが神田順治さんなどとともに出版した体育施設全書の「野球場」や「後楽園の25年」を見つけて、より野球場への興味を持つようになった一人。メジャー関係では1983年に米国取材に行った同僚記者に頼んで買ってきてもらった「Take Me Out to the Ball Park」を読んだのがきっかけで、「Lost Ballparks」、「Diamonds」、「Ballparks The and Now」、「The Ballparks Book」、「Green Cathedras」など米国で盛んなスタジアム関連本も日本人メジャー取材で米国出張する際に見つけては買ってきたものだった。

 しかし、今回の「球跡巡り」の内容とエピソードは米国に紹介してもいいほど濃密だ。大平洋戦争直後にプロ野球が日本中を沸かせた時代。中でも8球団から一気に15球団になった1950年、その後の数年は開催出来る球場が少なかったために、窮余の一策で高校のグラウンドや河川敷でも開催され、フェンス変わりにロープを張って行われた事実は知っていたが、それが10か所もあったとは、この本を読むまで知らなかった。

 球場の跡地を調べるのが好きだったという山本記録員によれば、コラム執筆のきっかけは1リーグ時代の球場別本塁打を調べたことだったという。色々な驚きがあった中で「大三沢のリッドルスタジアムなんて、スコアカードに“青森大三沢”と書いてあり、最初は青森大学の三沢キャンパンのグラウンドか? なんて想像しながら調査を始めました」と笑う。

 国会図書館にある当時の地元紙や地元役所、図書館などにも足を運んだ丹念な調査が、当時、わずか1試合だけでも行われた情景を浮き彫りにさせてくれる。

 私個人にとって最大の驚きは1945年11月に桐生新川球場でプロ野球東西対抗が行われたくだり。

 多くの文献には「神宮球場で2試合予定されていたが、22日は降雨中止となった。代替試合を行うにも神宮球場が使えず、鈴木龍二(連盟事務局長、後にセ・リーグ会長)の人脈を頼りに、急遽出身地の桐生で開催された」とある。改めて調べてみると、11月17日付けの上毛新聞に「進駐軍を招待 桐生で野球試合」の記事の中に職業(プロ)野球の東軍と西軍が24日(25日も掲載されたが中止)開催とあったという。また、上毛新聞は全桐生と誕生したばかりのセネタースの試合が18日に行ったことも報じたとある。

 この2つの事実は私も初めて知ったことで、筆者の丹念な調査に頭が下がる。

 「球跡巡り」では昨年までプロ野球が開催された球場(グラウンド)は289とある。今年3月オープンする日本ハムの本拠地、北海道北広島市の「エスコンフィールド北海道」が290個目となる。代わりに札幌ドームが数年後には、「球跡巡り」に入る可能性もあるのだろうか。

 蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

 ※「球跡巡り」の読者プレゼント企画を3日付けのスポーツ報知で掲載。

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