達筆な字は万年筆で書きしたためてあった。
「元気か? 巨人は大丈夫か?」
2023年の年賀状には、そう書かれていた。これが、交わした最後のメッセージ。巨人を長年、下支えしてきた松尾英治さんが27日に急逝した。享年58歳。最後の肩書きは「読売巨人軍野球振興部参与・ジャイアンツアカデミー副校長」だったが、原監督の右腕として、影の名参謀として、04~07年には1軍マネジャーを務め、その後は育成部統括ディレクター、GM補佐を歴任。チームの不祥事が明るみになった際には紀律委員会事務局長として選手、球団の綱紀粛正、再発防止に尽力し、その後、ジャイアンツ寮長として若手にとって厳しくも愛ある父親のような役を担っていた。
まだ歳をとっていないうちから白髪で、ユニホームを脱ぐと冬場は185センチの長身に黒のロングコートを纏い、ダンディーな姿が本当に眩しかった。でも、決して偉ぶらず、語り口調も柔らかで、いつも温厚な人だった。1983年にドラフト外で大型右腕として入団しながら1軍では活躍できなかったからこそ、裏方としてチームを支え続けることに徹し、チームの常勝をいつも考え、選手のことを思い、巨人を愛した人だった。
最初に出会ったのは担当記者になりたての時、松尾さんが2軍マネジャーだった時の1998年。午前7時前にはジャイアンツ球場に来て、2軍選手の練習環境を整え、報道陣にも丁寧に対応してくれた。でも、決して取材のガードは甘くなく、口は硬く、難攻不落の取材対象。選手だけでなく、取材者もよく見ていた。だからこそ、しっかり取材する記者にはポツリとヒントをくれる、そんな人だった。ヒントはなかなかくれなくても、取材に行き詰まっているような際には「ちゃんと地道にしっかりとやっていれば、誰かが見ていてくれる。ま、ほどほどにやれ」なんて独特の表現で声をかけてくれた。どれほど、助けられ、励まされたことか。
まさかの訃報に接し、連絡したい人がいた。
俳優の武田航平さん。2019年から2年にわたって「月刊ジャイアンツ」(報知新聞社発行)の連載「G RIDER」を担当し、4回目の連載でジャイアンツ寮を取材した時、当時寮長だった松尾さんにインタビューをしてもらったことがあった。
伝えたLINEはすぐに既読になり、武田さんからの返信にはこう綴られていた。
「松尾寮長… 昨日たまたま妻と松尾寮長のお話をしていました」
えっ。どうして。その偶然を、不思議に思えた。武田さんにとって松尾寮長とのインタビューは忘れられない時間で、その後も続けることになる、あることを教わっていた。
「握手の仕方です。ずっと真似してやってました」。武田さんははっきりと覚えていた。「松尾さん、教えてくれたんですよ。『握手はね、胸のところでするんだよ。原監督もそうなんだけど、わざと胸のところで握手するんだ。なぜだか分かる? そうするとバストアップで写真を撮った時に握手した手が写るだろ? 一緒に撮る人もうまく写るし、記者さんも助かる。良い写真が撮れるんだよ』って。だから相手の手を握った時に、グッと上に持ち上げるんです。それから僕も真似するようになりました。あの松尾さんの手の温もり、力強さ、いまだに忘れられません」
たった数時間のインタビュー。それでも、武田さんの記憶には鮮明に松尾さんが刻まれていた。
LINEのメッセージにはさらに、こう綴られ、締めくくられていた。
「命は尽きるものですが、やはり寂しいです。たった何時間かですが、僕のために真正面から目を逸らさずに真摯にインタビューを受けてくださった姿が今でも印象的です。人をよく見ている方でしたよね。松尾寮長が無事に天国にいけるよう、祈っております。 なんだか寂しいですね」
本当に、松尾さんは、人をよく見ていた。
あれは確か10年ほど前。松尾さんが育成部統括ディレクターかGM補佐だった時。ある中堅選手がくすぶっていて、松尾さんに密かにトレードを直訴したことがあった。
「俺はね、あいつを出してやりたいと思うんだよ。その方があいつのためになる」
その話を聞いた時、これはニュースになると思った。すかさず、聞き返した。「じゃあ、交換要員は誰にするんですか?」と。返ってきた答えに、その時はぽかんとした。
「ベイスターズの背番号63だよ。あの選手はいい。絶対にくる。(トレードの)バランスとしてもいい」
トレードは実現しなかったが、松尾さんが言ったその選手は、その後ブレークして、のちに巨人にFAで移籍してくることになる梶谷。先見の明があり、常にチームのことを思い、選手のことを考え、巨人を強くすることに心血を注ぐ人だった。
武田さんと一緒にジャイアンツ寮を取材に行った際、印象に残ったことが思い起こされる。練習場、トレーニングルーム入り口、至るところで道具や靴がきれいに整えられていた。「そういうことは寮則でもなんでもなく、当たり前のこと。整理しろ、練習しろ、とも言わないですよ」。頭ごなしに教え込むのではなく、本人に気づかせて、自主的にやらせる。そうした教えは選手の自立につながり、大きく育ち、いつか巨人を支える選手となることを、松尾さんは願い、そういう環境を育んでいた。
「選手は選手である以上、必ずやめる時がくる。クビと言われるか、自分から引退と言えるかは自分の努力次第なんですよ」
巨人は昨年、16年ぶりのBクラスV逸と、東京ドームが1988年に開場して以降、史上初の東京ドームでの2年連続の負け越しを喫した。原政権では史上初めて。5年ぶりにクライマックスシリーズ(CS)出場権も失った。まさに屈辱まみれのシーズンだった。2023年は、そこから這い上がり、V奪回を目指すことになる。
巨人は大丈夫か?
2月1日、間もなくキャンプイン。球春が到来する。
「大丈夫ですよ、松尾さん、今年の巨人は、大丈夫でしたよ」
オフに、そんな報告ができれば、きっと何よりの供養になる。(佐々木 良機)