プロレス界のスーパースター武藤敬司(60)が2月21日に東京ドームでの内藤哲也戦で引退する。新日本プロレスに入門した1984年10月5日のデビューから全日本プロレス、WRESTLE―1、プロレスリング・ノアと渡り歩き常にトップを驀進したカリスマ。さらに化身のグレート・ムタでは全米でトップヒールを極めるなど世界で絶大な人気を獲得した。スポーツ報知では38年4か月に及ぶプロレス人生を「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」と題し14日から連載中。16回目は、大流血に追い込まれたアントニオ猪木からの制裁マッチ。また、報知では2月18日(予定)にタブロイド新聞「武藤敬司 引退特別号」を発売します。(取材・構成 福留 崇広)
1986年10月。武藤は1年間の米国での武者修行を終え凱旋帰国した。新日本プロレスは、同月13日に後楽園ホールで開幕した「闘魂シリーズ」で武藤を新スターとして売り出し、胸に「610(ムトウ)」と染め抜かれた銀色のジャンパーにブルーのロングタイツに変身させ、「スペースローンウルフ」のキャッチフレーズでメインイベンターへ抜てきした。
当時は、テレビ朝日系で毎週月曜夜8時に生中継していた時代。ゴールデンタイムに武藤は毎週、登場したが、この連載の15回目で詳述したように様々な背景から一気にブレイクするには至らなかった。こうして迎えた最終戦。11月3日の後楽園ホールでさらなる試練が待ち受けていた。 メインイベントで組まれた試合は、武藤が木村健吾(現・健悟)と組んだタッグマッチ。相手はケビン・フォン・エリックとアントニオ猪木だった。武藤にとってこの一戦が猪木との初対決だった。この日は当初、藤波辰巳(現・辰爾)と木村がシングルで対決する予定だったが藤波が負傷で欠場。代わってマッチメイクされたのが、武藤と猪木の初めての遭遇だった。
試合は場外戦で武藤が流血に追い込まれたが、最後は首固めでケビンをフォールした。問題が起こったのは試合後だった。猪木が大流血の武藤を立たせると「来い!」と何度も向かってくることを命じたのだ。武藤が向かうと猪木は容赦なく顔面にナックルパート、ストンピングをたたきこんだ。試合後の制裁に木村が憤慨し猪木に食ってかかった。試合はテレビ生中継。猪木が武藤を制裁する光景が5分間あまりに渡り全国へ流れた。
この猪木からの制裁を武藤は、今月12日に徳間書店から発売となったノンフィクション『さよならムーンサルトプレス 武藤敬司「引退」までの全記録』で思いを明かしている。この異様な制裁を「ムーンサルトプレス」の命名者で当時、専門紙「週刊ゴング」記者として現場を取材した小林和朋さんはこう説く。
「あれは猪木さんの武藤への鉄拳教育だと私は、思ってリング上を見ていました」
教育とは具体的にどんな意味なのだろうか。
「凱旋帰国しましたが武藤は、当時の新日本らしくない売り出し方だったんです。しかも、米国から帰ってきてファイトスタイルも新日本伝統のストロングスタイルではなく米国ナイズされたファイトだった。キャラクターも猪木イズムの遺伝子とは違った方向に行っていました、だから猪木さんは、そこを危惧して改めて新日本のプロレスはこういうもんなんだ、猪木イズムはこういうもんだとリング上で教えたと私はその場で見て解釈したんです。猪木さんは『思いっきり殴ってこい!』と叫んでいましたから、あれはガチな教育でした」
猪木が創設し、メインイベンターとして絶大な人気を獲得した昭和時代の新日本プロレスは、猪木が掲げた「プロレスこそ最強」の看板とスタイルが絶対的な正義だった。この「猪木イズム」とは違う方向へ向かう武藤を伝統の「ストロングスタイル」へ正そうと猪木はリング上で観客がいる前で「教育」したのだ。
ただ、小林さんは「その猪木さんの意図を当時の武藤が理解したかどうかはわかりません」と明かした。この制裁マッチはテレビ生中継が終わり、リングから去った後の控室でも波紋があったと小林さんは証言する。
「試合後に控室で武藤と木村健吾さんが猪木さんにあいさつに行ったんです。武藤は『ありがとうございました』と言っていましたが、健吾さんは猪木さんに『試合が終わっているのに何であんなにしつこくやるんですか!」と食ってかかっていました」
武藤の制裁は、猪木の教育でありアドリブだった。ただ、当時のファンが抱いた印象は、はい上がろうとする武藤の姿よりも「燃える闘魂」の存在感が際立った。さらに当時、武藤の前に壁となった集団があった。それが「UWF」だった。(敬称略。続く)