武藤敬司、苦悩のスペースローンウルフ時代…連載「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」〈15〉

スポーツ報知
「スペースローンウルフ」時代に苦労した武藤敬司

 プロレス界のスーパースター武藤敬司(60)が2月21日に東京ドームでの内藤哲也戦で引退する。新日本プロレスに入門した1984年10月5日のデビューから全日本プロレス、WRESTLE―1、プロレスリング・ノアと渡り歩き常にトップを驀進したカリスマ。さらに化身のグレート・ムタでは全米でトップヒールを極めるなど世界で絶大な人気を獲得した。スポーツ報知では38年4か月に及ぶプロレス人生を「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」と題し14日から連載中。15回目は、苦悩のスペース・ローンウルフ時代。また、報知では2月18日(予定)にタブロイド新聞「武藤敬司 引退特別号」を発売します。(取材・構成 福留 崇広)

 道場で「実力」を見せつけ、試合では華やかに「ムーンサルトプレス」を舞ったヤングライオン時代の武藤敬司。破格の待遇は1985年9月6日、愛知・碧南市臨海体育館だった。デビューからわずか11か月でテレビマッチに初登場したのだ。試合はドン荒川と組んでトニー・セントクレア、上田馬之助と対戦した。当時、新日本プロレスの中継番組「ワールドプロレスリング」は金曜夜8時からテレビ朝日系で全国生中継されていた。デビュー1年目でのゴールデンタイム登場は異例の大抜てきだった。

 背景には当時の新日本マットが84年9月に長州力らが大量離脱し人気が低迷したことがある。新たなスター選手を渇望していたテレビ局、団体にとって武藤は、まさに新星だった。

 そしてさらなる飛躍が海外武者修行だった。テレビマッチから2か月後の11月、デビュー2年目を迎えた武藤は、初めて渡米した。

 当時、海外修業は出世の第一歩。わずか2年目での渡米は、破格の待遇だった。武藤の海外遠征を決断したのは当時、副社長で現在は新日本の相談役を務める坂口征二氏だった。猪木に次ぐナンバー2だった坂口氏は、今月12日に徳間書店から発売となったノンフィクション『さよならムーンサルトプレス 武藤敬司「引退」までの全記録』で新スターとして武藤にかけた思いを明かしている。

 武藤は、坂口氏の後押しを受けフロリダ地区を中心に活躍し、翌86年10月に凱旋帰国。コスチュームは、ヤングライオン時代の黒のショートタイツを脱ぎ捨て、フルフェイスのヘルメットをかぶり、胸に「610(ムトウ)」と染め抜かれた銀色のジャンパーにブルーのロングタイツに変身した。キャッチフレーズは「スペースローンウルフ」。凱旋帰国初戦は、10月13日の後楽園ホールでの藤波辰巳(現・辰爾)戦。放送曜日が金曜から月曜夜8時に移動した初回の放送で武藤は、いきなりトップの藤波と一騎打ちが組まれたのだ。翌週の生中継も藤波とシングルで戦い、いずれも敗れたが、ゴールデンタイムでの藤波との2連戦は、デビュー3年目でメインイベンターの仲間入りを果たしたことを意味していた。

 武藤を帰国させたのも坂口氏の決断だった。理由はライバルの全日本プロレスへの対抗策だった。この86年は、4月に全日本が大相撲の元横綱・輪島大士を獲得。角界で抜群の人気と知名度を持つ輪島のプロレス入りはプロレス界を飛び越えたニュースとなり、多くの注目を集めていた。輪島は11月1日にふるさとの石川県七尾市でデビューが決まっていた。この沸騰する「輪島人気」の対抗策として坂口氏は「武藤敬司」という新スターをぶつけたのだ。

 しかし、この「スペースローンウルフ」は、ブレイクしなかった。新日本、テレビ朝日の露骨な武藤への売り出しにファンの視線は冷ややかで、新日本マットで文字通りの「一匹オオカミ」状態だった。なぜ、人気が不発だったのか。「ムーンサルトプレス」の命名者で当時、専門紙「週刊ゴング」で取材した小林和朋さんはこう説く。

 「新日本が武藤をスターにしようとスペース・ローンウルフのネーミング、コスチュームなどの売り出し用のキャラを作りすぎたんだと思います。武藤自身はもっといろんな可能性を秘めていたのに売り出し用のキャラクターを作りすぎて、それが新日本ファンに受け入れられなかったんだと思います」

 アントニオ猪木さんが日本プロレスを追放され、1972年3月に旗揚げした新日本プロレス。ジャイアント馬場さんという絶対的なスターを追いかけ、追い越そうと貪欲にハングリーに挑む姿勢にファンは共感した。猪木さんの後継を担う選手も地道な下積みを経てはい上がったレスラーだけをファンは認めた。例えば藤波辰爾は、デビューから6年あまりを経た1978年1月にニューヨークでWWWF(現WWE)ジュニア王座を獲得してスターとなった。長州力も入門時こそミュンヘン五輪にレスリングで出場した実績で注目されたが、人気は出ずデビューから8年を経た82年10月に藤波への反逆でようやくスターの仲間入りを果たした。こうした苦労、逆境からはい上がってきたレスラーこそ「昭和」の新日本ファンは認めていた。団体が作ったスターは、佐山聡の初代タイガーマスクのような例外はあるが、レスラーは受け入れない傾向にあった。「スペース・ローンウルフ」の武藤は、まさに「昭和プロレス」で認められない象徴だった。

 小林さんも凱旋帰国した武藤を「ネームミングからコスチュームまで全部お膳立てするのは珍しかったし、当時の新日本らしくない売り出し方でした」と指摘した。当時の武藤にジョージ高野がマスクマンになった「ザ・コブラ」と同じ印象を抱いていたという。コブラも引退したタイガーマスクの後継として83年11月に登場したが人気は不発だった。

 「コブラもキャラクターが先行してしまった。本来、ジョージ高野という選手は若手時代からはめちゃくちゃ期待感あったんですが、コブラに変身してから期待感が崩れたファイトになってしまった。スペースローンウルフ時代の武藤もコブラと同じでした」

 輪島大士への対抗としてスペース・ローンウルフとして売り出された武藤だったが思惑は外れた。苦悩の時。武藤へ制裁を入れたのは「アントニオ猪木」だった。(続く)

格闘技

個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請 報知新聞150周年
×