武藤敬司、ヤングライオン時代に新日本プロレス道場で見せつけた「実力」…連載「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」〈14〉

スポーツ報知
武藤敬司

 プロレス界のスーパースター武藤敬司(60)が2月21日に東京ドームでの内藤哲也戦で引退する。新日本プロレスに入門した1984年10月5日のデビューから全日本プロレス、WRESTLE―1、プロレスリング・ノアと渡り歩き常にトップを驀進したカリスマ。さらに化身のグレート・ムタでは全米でトップヒールを極めるなど世界で絶大な人気を獲得した。スポーツ報知では38年4か月に及ぶプロレス人生を「完全版さよならムーンサルトプレス伝説」と題し14日から連載中。14回目は、入門した新日本プロレス道場で見せつけた「実力」。また、報知では2月18日(予定)にタブロイド新聞「武藤敬司 引退特別号」を発売します。(取材・構成 福留 崇広)

 1984年10月5日のデビューから5か月後に披露した必殺技「ムーンサルトプレス」でヤングライオンの中でも鮮烈な印象を与えた武藤。188センチの長身、驚異的な運動神経と卓越したプロレスセンスは、前座時代から派手で華やかなオーラをまとっていた。

 しかし、武藤には観客を前にしたリング上ともうひとつの「顔」があった。それが道場での「実力」だった。

 山梨・富士吉田市で生まれ育った武藤は、中学時代から本格的に柔道をはじめた。富士河口湖高校に進学すると山梨県内では無敵だった。さらに卒業後に宮城・仙台の「東北柔道専門学校」(現・仙台接骨医療専門学校)に進むと、19歳の秋に和歌山県で行われた「全日本新人体重別選手権」で3位に入った。この結果、全日本柔道連盟の「全日本強化指定選手」にも選ばれる実力を持っていた。

 21歳で新日本プロレスに入門したが、その「実力」は「道場」で発揮された。入門が武藤の4年先輩で81年1月にデビューした小杉(現・伊藤)俊二さんが証言する。小杉さんは85年4月に「第1回ヤングライオン杯」で優勝するなど若手のホープだったが、腰のケガで88年4月に引退。武藤が入門した当時の印象を「入った時からすべてができあがっとるなって感じでした」と明かした。

 「できあがっとる」の意味をプロレスへの「考え方も大人だったという覚えがあります」と明かした上で道場でのスパーリングの実力も「強かったです。私なんか極められた覚えがあります」と告白した。

 柔道の実力者だった武藤は、デビュー前から先輩レスラーと互角、あるいはそれ以上にスパーリングで渡り合っていたのだ。それは、1年先輩の佐野巧真さんも同じ証言をした。佐野さんは、武藤の1年前となる1983年に入門。84年3月にデビューした新日本時代は「佐野直喜」のリングネームでIWGPジュニア王座を獲得。その後、SWS、UWFインターナショナル、プロレスリング・ノアなどで活躍。2020年1月に引退し、57歳の現在は、京都市内で焼肉店「焼肉巧真」を経営している。

 「スパーリングで(私が武藤を)極めた時もあるし逆に柔道特有の技で武藤にやられちゃう時もありました。若い時は、みんな(武藤に)やられていると思います」

 入門して間もない新弟子が道場でのスパーリングで先輩を極めることはあったのだろうか。佐野さんは言う。

 「そんな選手は少ないと思います。武藤は、実力がありましたから、彼とスパーリングをやるときは、私だけでなくみんな必死だったと思います」

 リング上で「ムーンサルトプレス」に象徴される華やかなプロレスで観客を引きつけると同時に観客のいない「道場」で武藤は、「実力者」だったのだ。ただ、武藤自身、プロレスラーとして「実力」を磨くことに興味はなかった。その本音は、今月12日に徳間書店から刊行されたノンフィクション『【完全版】さよならムーンサルトプレス 武藤敬司「引退」までの全記録』とスポーツ報知が2月18日に発売する「引退記念特別号」のタブロイド新聞でのインタビューで明かしている。

 現在、新潟・佐渡市で妻の実家「伊藤酒店」を経営している小杉さんは武藤の引退に「いろいろあって大変でしたでしょうけど、長い間、体にムチ打ってようやったと思います。“お疲れさん”と言ってあげたいですね。あと、これからの人生は長いですから体を大事にして欲しいです」と言葉を贈った。

 リング上の輝きと道場での「強さ」を兼ね備えた武藤は、デビュー2年目の85年11月に初の米国への武者修行。そして1年後に凱旋帰国する。「スペース・ローンウルフ」のキャッチフレーズで売り出されたが、それは葛藤と逆風のスタートでもあった。

(続く)

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