門田博光さん74歳死去 ノムさん王さんの忠告聞かず大振り貫いた「不惑の大砲」

スポーツ報知
南海時代の門田博光(昭和63年5月撮影)

 プロ野球歴代3位の通算567本塁打を記録し、南海、オリックスなどで活躍した門田博光(かどた・ひろみつ)氏が死去していたことが24日、分かった。74歳だった。かねて病気療養していたが、23日に予定されていた治療に現れず、病院から連絡を受けた警察が自宅で倒れているのを発見した。アキレスけん断裂の大けがを克服して40歳でプロ野球記録の44本塁打を放った左の大砲。44歳まで現役を続け、本塁打王3度、打点王2度、歴代4位の通算2566安打をマークするなど輝かしい野球人生だった。

 パワフルな打撃から「ポパイ」の愛称で親しまれた大打者が、天国へと旅立った。関係者によると、門田さんは23日、透析治療が予定されていた兵庫・相生市内の病院に姿を見せず、連絡を受けた警察が自宅を訪ねたところ、倒れているのを発見。その場で死亡が確認された。

 身長170センチとプロ野球選手としては小柄ながら王、野村に次ぐ歴代3位の通算567本塁打を記録。中学、高校時代は1本も本塁打を打てなかったが、努力することにウソはない、という信条のもと深夜の素振りなど地道に打撃を磨き、3度の本塁打王、2度の打点王に輝いた。

 社会人のクラレ岡山から1969年のドラフト2位で南海(現ソフトバンク)に入団。王を参考に一本足打法にした2年目に3番でレギュラーをつかみ、打率3割、31本塁打、120打点(打点王)で初のベストナインに選出された。

 79年の春季キャンプでアキレスけん断裂の大けがを負ったが、懸命なリハビリで復活を遂げ、翌年に当時自己最多の41本塁打。81年には初の本塁打王。初めて全試合出場した40歳の88年に自己最多タイの44本塁打、同最多125打点の2冠王。史上最年長MVPに輝き「不惑の大砲」と呼ばれた。

 この年、南海がダイエーに身売りしたが、当時高校1年の長男と中学1年の長女を残しての福岡単身赴任に抵抗があり、同じ関西のオリックスへ移籍。「ブルーサンダー打線」の中軸をブーマー、石嶺、藤井らと形成した。91年にホークス(ダイエー)に復帰し、翌年44歳までプレーした。40歳以上でマークした133本塁打は日米最多。大舞台にも強く、開幕戦9本塁打は長嶋に次ぐ2位、通算1678打点は史上3位だった。

 頑固に己を貫いた。一発狙いの大振りを野村克也兼任監督にたしなめられても聞かなかった。1年目のオープン戦で巨人と対戦時、ベンチに戻ると、野村と王貞治が待っていた。王は「ホームランはヒットの延長」と諭したが、門田は「口裏を合わせてたんでしょ」と言い放った。野村は怒り、王はあきれたという。以来、2人の数字をさらに追い求めた。「これも567本を打つルーツ。野球をやめるまでの無礼をした自分への戒めとして、2人の間に入るか、3番目の数字を残そうと。50歳までやれば19番(野村)の657本は抜けると思っていた」と語った。

 引退後は解説者、評論家を務めたが、糖尿病に悩まされ、2005年には脳梗塞(こうそく)で倒れて野球界から離れた。06年に野球殿堂入り。09年に関西独立リーグ「大阪ホークスドリーム」の総監督に就任、11年には監督も務めた。

 輝かしい実績を残しながら、NPB球団で指導者になることはなかった。「理論はたくさん持っている。自信はあった。だけど、この健康状態で終わった」。孤高の求道者は最後まで誇りを失わなかった。

 ◆門田 博光(かどた・ひろみつ)1948年2月26日、山口県小野田市(現山陽小野田市)生まれ。奈良・天理高では3年夏に甲子園出場。社会人のクラレ岡山に進み、68年ドラフトでは阪急から12位指名を受けたが拒否。69年ドラフト2位で南海(現ソフトバンク)に入団した。88年オフにオリックスへ移籍。90年オフにダイエーへ移り、92年に引退した。通算2571試合で2566安打の打率2割8分9厘、567本塁打、1678打点。2006年に野球殿堂入り。左投左打。

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