なぜ、46歳の大ベテラン・棚橋弘至が今でも新日本プロレスの「エース」と呼ばれ、ファンに愛され続けているのか。その理由が心の底から分かった年またぎの1週間だった。
昨年12月27日に行った棚橋にとって初の人生相談本「その悩み、大胸筋で受けとめる 棚橋弘至の人生相談」(中央公論新社刊)についての単独インタビュー。インタビュールームで「100年に1人の逸材」はパンプアップした体にいつもの笑顔を浮かべてソファーに座っていた。
「その悩み―」は八方塞がりの恋愛、上司からの圧、低い自己肯定感、離婚の踏ん切りどき、人生の意味など、誰しも抱く悩みに棚橋が正面から向き合う一冊。自ら悩み、もがきながら、相手に寄り添い、相談に乗る形。読売新聞が運営する働く女性を応援するサイト「OTEKOMACHI(大手小町)」での3年間の連載をまとめたもので20日の発売以来、その温かい内容で大きな反響を呼んでいた。
包み込むように相談者と伴走。上から目線でなく一緒に考える内容が人気を呼んでいる一冊について、棚橋は「人の悩みに答えるというのは大役で誰しもができることではなくて―。悩んでいる方に頼ってもらえるのはうれしいこと。少しでも相談された方の生活がより良く楽しくなればって頑張りました」とニッコリ。
「これだけ相談をしてもらえるっていうのは、プロレスラーの範疇を超えてきたかなと思います。新日にはオカダ(・カズチカ)、内藤(哲也)、鷹木(信悟)、SANADA、いっぱいスター選手がいますけど、人生相談を担当できるのは僕だけです」と胸を張った。
「僕がプロレスを続けていく中で一番の気づきは自分が勝ちたい、目立ちたいよりはファンの方に喜んでほしいということ。自分のことよりも人のために何かをする時の方が力が出るんです」と明かすと、「ファンの喜びを自分のエネルギーにする。それが人の喜びを自分の喜びにするという生き方になってます。これはプロレスラーをやっていたからこそ気づけたことです。自分のためなんだけど、人に喜んでもらった方がよりやる気につながったり、パワーになるというのに気づけたのが、僕のプロレスラーになってのターニングポイントでした」―。
相談本の回答の中、最も印象に残ったのが「楽しくなくても、楽しそうに生きることはできる」という一文だった。
決してエリート街道を突っ走ってきたわけではない24年間のレスラー人生。新日の入門テストにも3回目でやっと合格。過去には「僕はかっこいいだけなんです」と自虐的につぶやいたこともあった。引退の危機もあった右ひざ変形性関節症など大ケガとの闘いを繰り返す中、2000年代に一時は倒産もうわさされた新日を大会前に常に現地に前乗りして懸命にプロモーション。V字回復に導いたのが、この男だった。
だから、こう聞いた。
「『楽しくなくても、楽しそうに生きることはできる』という言葉は苦難も多かった自身のプロレスラー人生から紡ぎ出された言葉なのか」―。
この質問にも笑顔を浮かべた棚橋は「2000年代に(大会を)プロモーションしながら回っていて、寝る時間もちょっとしかなくて、でも、大会を知ってもらうために稼働しまくっていた。その時に疲れた顔でプロモーションに来ても、見ている人には熱は伝わらない。楽しそうに生き生きと、なんで、この人、こんな熱量でプロモーションしてるんだろう。楽しそうだな、じゃあ、行ってみようかなってなるでしょ」と、こちらに問いかけると、「『あの人、何かいつも楽しそうだな』って人がいるじゃないですか? いつも笑顔でエネルギッシュでって人も絶対、辛いことはあるのに人に見せない。そんなにしんどくても顔だけは笑っていられるってのが僕の特技。顔を笑顔でフィックスできるんですよ。みんながイメージする棚橋でいたい。いつも笑顔でいたいんです」と明かした。
そして、インタビューの1時間後。東京・神保町の書泉ブックマートで行われたサイン本お渡し会に登場した「エース」は文字通り、笑顔を振りまいた。
限定100人の参加券は「即完売」(書店関係者)。女性中心のファンが列を作る中、いきなりファンの列に飛び込み、「皆さん、こんばんは!」と呼びかけると、ファンは突然の主役“乱入”に悲鳴をあげた。
お渡し会では、1人1人のファンとアクリル板越しにグータッチ。常連の女性ファンには「よく会場に来てるよね」と語りかけ、大阪から日帰りで駆けつけた女性には「気をつけて帰ってね。良いお年を」と笑顔で気遣った。
100人のファンと丁寧に、心底楽しそうに会話を続けた棚橋の「優しさ全開」のクライマックス。それを年が明けた4日に行われたプロレス界最大のお祭り・新日本プロレス「アントニオ猪木追悼大会 WRESTLE KINGDOM 17 in 東京ドーム ~闘魂よ、永遠に」大会第6試合での「武藤敬司新日本プロレスラストマッチ」のリング上で見届けることができた。
2月に引退する武藤敬司(60=プロレスリング・ノア)、海野翔太(25)とトリオを結成。「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」の内藤哲也(40)、SANADA(34)、BUSHI(39)組と6人タッグで対戦した棚橋。
午後6時45分。新日の「未来のエース」海野に続いて入場した棚橋は声を出しての応援が解禁された大観衆が発する「ウォー!」という雄叫びと足踏みの中、堂々と入場する武藤をリング上で笑顔で迎えた。
試合序盤、武藤がコーナーポストに上り、医師から禁じられているムーンサルトプレスの態勢に入ると、武藤のひざの状態を誰よりも知る元付き人の立場から必死にストップ。この試合最大の見せ場を演出した。
会見場でも憧れの武藤への思いを率直に明かした。
「今日は猪木さんのイベントなんだから卍固めやインディアンデスロックも狙っていたけど、おまえ、そういう余裕を与えてくれなかったなあ。早いプロレスでさ」と苦笑する武藤を笑顔で見つめた後、「武藤さん、東京ドームの思い出は?」と記者が聞きたい質問まで繰り出し、武藤から「2009年、おまえとここでやって、俺が負けたことだよ」と言う答えまで引き出してくれた。立命館大時代、一時はスポーツ新聞記者を目指した気配りの人の真骨頂だった。
ムーンサルトプレスを寸前で止めた一幕について、「あの一瞬に、走馬燈のように医者や家族の顔が浮かんだ、あそこで棚橋が止めてくれて良かった」と感謝する武藤に「僕も見たいと思ったけど、まだ引退試合もあるので、泣く泣く止めさせていただきました」と答える一幕もあった。
どうだろう。その魅力の根源を知りたくて追いかけ続けた私に様々に見せてくれた1人のトップレスラーの優しさと気配りの数々が伝わっただろうか。
年末のインタビューでは、こんな場面もあった。「今年にかける思いを」と差し出した色紙に約3分間考え込んだ後、「大復活」と大書した棚橋は、こう答えてくれた。
「今年、IWGP世界ヘビーを獲りますんで。それまでは絶対に辞めません。期待して下さい」―
ファンはこの男を「太陽の天才児」とも呼ぶ。まさに棚橋は新日の、そしてファンにとって太陽のような存在。そして、その太陽はまだまだ沈まない。(記者コラム・中村 健吾)
◆棚橋弘至(たなはし・ひろし) 1976年11月13日、岐阜県大垣市生まれ。46歳。立命館大法学部時代、アマチュアレスリング、ウエイトトレーニングに励み99年、3度目の挑戦で入門テストを突破し、新日本プロレス入門。同年10月、真壁伸也(現刀義)戦でデビュー。03年、初代IWGP U―30無差別級王者となり11度防衛。06年7月、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制し同王座初戴冠。11年~12年の第56代王者時代には連続最多防衛記(当時)のV11を達成。G1クライマックスは07、15、18年の3回制覇。ニュージャパン杯は05、08年の2回制覇。プロレス大賞MVPは09、11年、14年、18年と4回受賞。181センチ、101キロ。愛称は「新日のエース」、「100年に1人の逸材」。