伊東ゆかり 尽きない情熱「声が出る限り歌っていたい」…芸能生活70周年の誓い

スポーツ報知
健康の秘けつを「発声練習。犬の散歩やテニス、体を動かすのがいいのかな」と語った伊東ゆかり(カメラ・小泉 洋樹)

 「小指の想い出」「恋のしずく」などで知られる歌手の伊東ゆかり(75)が今年、芸能生活70周年、レコードデビュー65周年を迎える。昨年11月、6枚組みCDボックス「POPS QUEEN~オールタイム・シングル・コレクション~」(全138曲収録)をリリース。幼少期の思い出や歌手人生の転機などを振り返り、「声が出る限り歌っていたい」と生涯現役を誓った。(加茂 伸太郎)

 「お話をいただいた時はビックリしました。CDが売れない時代に、珍しい人がいるんもんだなって(笑い)。『ポップス・クイーン』だなんて、こそばゆいタイトルを付けてくださって大変恐縮しております」

 自身初のシングルコレクションは、レコード会社の垣根を越えキングレコード(47枚)、日本コロムビア(22枚)、ビクター(6枚)、TDKコア(2枚)、アルファミュージック(9枚)という国内制作のシングル86枚を収録。カバーポップスやカンツォーネ、歌謡曲を加えた全138曲が収録された。

 「一曲一曲で言えば覚えていない曲もあるし、アルバムのためにレコーディングして以来、一度も歌っていない曲もある。私自身、聴くのが楽しみ。このアルバムが(聴いた方々の)何かのきっかけになってもらえばうれしいです」

 1967年に「小指の想い出」が爆発的にヒット。「恋のしずく」「朝のくちづけ」「知らなかったの」と立て続けにヒットを飛ばし、60年代後半から和製ポップス歌手として一時代を築いた。キャリアのスタートは6歳、進駐軍キャンプのクラブで歌い始めた。11歳の時に「かたみの十字架/クワイ河マーチ」でデビュー。意外かもしれないが、幼少期は内気な性格だった。

 「隅っこが好きでコミュニケーションが苦手。笑顔のない子でした。コントラバス奏者だった父が『人前で歌わせれば、表情も豊かになって話もできるようになるのでは』と始めさせたのが、この世界に入るきっかけになりました」

 当時の進駐軍キャンプのショーには尾藤イサオ(79)、日野皓正(80)・日野元彦さん(99年死去、享年53)兄弟、弘田三枝子さん(2020年死去、享年73)、デューク・エイセスら60年代以降の音楽シーンをけん引する豪華メンバーが顔をそろえた。

 「小田急線沿線で歌う場合、今のバスタ新宿がある新南口に午後3時に集まるんです。イベンターさんが来て米軍基地のある座間、相模大野、厚木に振り分けられるの。横須賀の場合はJR東京駅の丸の内口に集合。あの頃は言われるがまま。本当は学校に行きたかったのよ」

 1回のステージは数分。自分の出番の後は複数組が歌唱し、マジックやダンス、ストリップのコーナーがあった。わずかだが、ステージに立つのが嫌で嫌でたまらなかった記憶が残っている。

 「ジェスチャーもせず、スマイルもせずに突っ立ったまま。“ノースマイル”というあだ名をもらっていたみたいです。本国に息子や娘を置いてきた将校さんは、私たちを見て子供たちを思い出すの。歌い終えると、チョコレートやアイスクリーム、コカ・コーラやファンタをくれて。そのうちに今日歌ったら何をくれるかなって、それが楽しみになりましたね」

 63年にテレビ番組「スパークショー」への出演をきっかけに、中尾ミエ(76)、園まり(78)と共に「スパーク3人娘」としてブレイクした。評判が良かったため、当時所属していた渡辺プロの渡辺晋社長から「3人で組んで地方を回らせろ」と号令が飛んだ。当時、中尾は「可愛(かわい)いベイビー」が大ヒット。伊東、園は駆け出しだった。

 「ミエさんの話を聞くと、『私一人でできるのに、何で3人でやらなきゃいけないの』と思っていたそうです。ミエさんとは年が近いし、あの頃は若かったからよくケンカしました(笑い)。洋服も趣味が違った。ミエさんは流行を先取りする方で、ミニスカートがはやった時もすぐにミニスカート。でも、私は嫌。シースルーがはやった時も、ミエさんはノーブラで透けても大丈夫って。でも、私は嫌。最年長のまりさんは、たしなめる係でしたね」

 音楽活動の転機に挙げるのが、「小指―」との出会いだ。それまでアメリカンポップス、カンツォーネのカバーが中心だったが、この曲がヒットし、その年の日本レコード大賞歌唱賞を受賞。歌謡曲路線の基盤を築くことに成功した。

 「3人娘の中で出遅れていたから、社長やマネジャーが心配してこの曲を持ってきてくださったんです。こういう感じの曲は初めてだから、初めは拒否したの。『これは私の歌う歌じゃない』『まりさんに歌ってもらって』と言って周囲を困らせましたね」

 下宿先の渡辺社長からは「ゆかり、みんながオマエを何とかしようとやっている。歌わなきゃダメだ」と諭され、渋々と受け入れた。

 「(作詞の)有馬(三恵子)さん、(作曲の)鈴木(淳)さんが曲の説明をしてくれたけど、ブスーッとして。後になって無礼を謝りましたけど、当時は(若さ故に)失礼をしました。鈴木さんはおうちが近かったものですから、よくお会いして。『あの頃のゆかりちゃんには参ったな~』と言われました」

 65年に、日本人として初めてイタリアのサンレモ音楽祭に出場。「恋する瞳」で入賞した経験も大きい。

 「東京五輪が前年にあったけど、日本という国自体が知られていなかった。ミラノの空港に降りた時、着物で降りてくると思ったみたいで、記者から『今の日本人は洋服を着るのか?』と聞かれたわ。とにかく質問の量がすごかった」

 新型コロナの影響を受け、この3年あまりはコンサートの延期や中止を経験。思ったような活動ができず、不完全燃焼の日々もあった。

 「コロナ禍の3年間を返してほしい。ズボッと抜け落ちてしまっているので。全く歌えない時期を経験したことで(過去に)あれだけやめたい、やめてやろうと思った音楽が、やっぱり好きなんだと再認識できました。やっぱり仕事をしている時が一番楽しいかな」

 体力、気力ともに充実。まだまだ歩みを止めるつもりはない。

 「父のせいにするわけじゃないけど、歌しかやってこなかった。私には歌うことしかないのよ。歌うことが体に染みついていて、音楽、歌は体の一部みたいなもの。人生100年時代。あと何年、この世にいられるか分からないけど、声が出る限り歌っていたい。世の中、いつ何が起こるか分からないじゃない。一日一日を、悔いがないように生きなきゃと思いますね」

 音楽への情熱が尽きるまで、伊東は歌い続ける。

 ◆伊東 ゆかり(いとう・ゆかり)1947年4月6日、東京都出身。75歳。58年レコードデビュー。69年NHK紅白歌合戦で紅組司会(歌手としては11回出場)。71年「誰も知らない」がヒット。2005年中尾ミエ、園まりと40年ぶりに「3人娘」を再結成。前夫は歌手で俳優の佐川満男。長女は歌手・宙美(ひろみ)。

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