1968年箱根駅伝6区でブレーキした立大OB竹村酉さんが55年ぶりに復活出場する後輩へ「再び立教のタスキをつないでくれてありがとう」

スポーツ報知
第44回箱根駅伝6区で序盤の上り坂を必死に走る立大の竹村さん(前方=竹村さん提供)

 第99回箱根駅伝(来年1月2、3日)で立大が55年ぶりに復活する。予選会(10月15日)で6位通過し、28回目の本戦出場。大会史上最長の“返り咲き”に歴代の立大OBは歓喜している。特に1968年箱根駅伝の出場メンバーは1か月後の号砲を感慨深く待つ。1968年大会で立大は11位。10位の早大とわずか8秒でシード権(10位以内)を逃した。6区で区間最下位と大苦戦した竹村酉(みのる)さん(77)は当時の切ない思い出を振り返ると同時に、半世紀以上の時を超えて再スタートを切る後輩に温かいエールを送った。(取材・構成=竹内 達朗)

 第99回箱根駅伝まで、あと1か月。第44回箱根駅伝で立大の6区を走った竹村さんは、55年ぶりに箱根路に戻ってくる立大の江戸紫タスキに心を躍らせている。

 「単純にうれしい。今年の予選会はテレビの前で一生懸命に応援していました。6位通過と発表された後、昔のチームメートとたくさん電話やメールをして喜び合いました。最高ですよ」

 1968年1月3日。竹村さんは、万感の思いを胸に神奈川・箱根町の復路スタートラインに立った。

 「最初で最後の箱根駅伝でした。『このために4年間、走り続けてきたんだ』と心が震えました」

 ただ、スタートラインに立つまで紆余(うよ)曲折、波乱万丈。“箱根への道”は、長く険しかった。

 「立教高(現立教新座高)時代は400メートルが専門の短距離選手でした。立大に入学直後、3学年先輩の浜崎真造さんに『駅伝メンバーが足りないから一緒に走ってくれ』と強く誘われて長距離に転向しました」

 浜崎さんは4年連続で5区出場。1年6位、2年区間賞、3年3位、4年区間賞と大活躍した。のちに立大の伝説的な選手として名を残すことになった大エースに直接、勧誘されて断ることはできなかった。

 「1、2年生の頃は全く練習についていけなかった。30キロ走では最初の10キロで集団から遅れた。惨めな思いをしながら走っていました」

 苦しかったが、それでも、充実した青春時代だった。現在、立大の駅伝チームは埼玉・新座市の選手寮、グラウンドを拠点としているが、当時の練習拠点は東京・板橋区にあったセントポール・グリーンハイツ(現・都立城北中央公園)だった。ロード練習は川越街道(国道254号線)を中心に行っていた。選手寮はなく、竹村さんら東京や埼玉出身の選手は実家から通い、地方出身の選手は東武東上線沿線で下宿暮らしをしていた。

 「朝練習は各自に任されていた。本練習は午後4時頃から。毎日、グラウンドに集合して、みんなで走っていました。月末の頃になると、下宿生はお金がなくなるから、よくウチに誘って一緒にご飯を食べたものです。ウチの両親もチームメートを連れてくると、喜んでいました。楽しかったですね」

 3年生になると、竹村さんはチーム10番手前後の選手に成長。箱根駅伝出場が見えてきた。しかし、3年時は予選会で敗退した。

 「あの時、予選会を通るチーム力があった。本戦を見据えて、あまり調整せずに挑んだら、まさかの落選。ショックでした」

 憧れの箱根路を走るチャンスは1回だけとなった。

 「4年生の時はみんなよく練習しましたね。同期には1年生の時から箱根駅伝に出場した須田(秀夫)君、矢島(通夫)君、斎藤(武)君と強い選手が多かった。夏は北海道で合宿をしました。絶対に予選会を突破して、本戦ではシード権を狙っていました」

 当時の出場枠は15校。シード校が10校。予選会通過枠は、わずか5校の狭き門だった。1967年11月19日、第44回箱根駅伝予選会で立大は3位通過。2年ぶり27回目の出場を決めた。

 1968年1月2日。立大は5区でエースの須田さんが区間4位と好走し、往路9位と健闘した。翌日、竹村さんは短距離出身のスピードを買われ、山下りの6区に出陣。当時、往路の成績に関わらず全チームが復路一斉スタートだった。竹村さんは他校の14選手とともに箱根の山に挑んだ。

 「最初の上りの5キロは12番手でした。でも、下りに入ってからスピードが乗らなかった。恵明学園を過ぎた頃(約8キロ)には最下位になったと記憶しています。山下りを得意とする他校の選手たちと力の差を痛感しました。残り3キロ、実際には緩やかに下っていますけど、上り坂のように感じた。400~500メートル前に法大の監督車が小さく見えました。立大の監督車から『最後だ、もがけ~!』という声が聞こえましたが、差は縮まりませんでした。それでも、7区の斎藤君にタスキを渡したことははっきりと覚えています」

 設定タイムより2分以上も遅い1時間7分49秒。区間最下位に終わった。結果的に立大は3校に逆転され、9位からシード圏外の12位に後退した。現在では即時に途中成績が分かるが、当時は正確な順位が不明のままレースが進んだ。しかも、その大会は日大は往復路を制する完全優勝で後続を大きく引き離したため、下位校は8区以降、繰り上げスタートが相次ぎ、総合成績が判明するまで時間を要した。

 「確か、総合成績が確定したのは10区の高橋(憲司)君が大手町にゴールしてから4時間後くらいだったと思います。立教のチーム関係者が集まる日比谷松本楼で結果を聞きました」

 日大が11時間26分6分で2年連続11回目の優勝を果たした。ぎりぎりの10位でシード権を獲得した早大は12時間12分2秒。11位の立大は12時間12分10秒。その差わずか8秒だった。

 「あと8秒か…と、55年たった今でも思います。あの時、シード権を残せず、後輩たちに本当に申し訳ない、と思った。ただ、それから、これほど長い間、立大が箱根駅伝に出られなくなる、とは思いませんでした」

 1968年以降、立大は54年連続で予選会で敗退。長いトンネルに入った。箱根路から遠ざかって半世紀が過ぎた2018年11月、2024年の創立150周年記念事業として「立教箱根駅伝2024」がスタート。中大、エスビー食品などで活躍した上野裕一郎監督(37)が就任し、本格的な強化が始まった。そして、上野監督体制となって4回目の予選会で難関を突破。2009年に33年ぶりの復活出場を果たした青学大を超え、大会史上最長となる55年ぶりの「返り咲き」を決めた。新春の晴れ舞台に立つ若き立大ランナーへ、竹村さんは心からのエールを送る。

 「頑張れ、とは言いません。箱根駅伝のスタートラインに立つということは、すでに精いっぱい頑張っている、ということですから。再び立教のタスキをつないでくれてありがとう。それだけを言いたい」

 8秒差でシード権を逃してから55年。日数にして2万88日。長い時を経て、立大は箱根路で新たな戦いを始める。

 ◆竹村 酉(たけむら・みのる)1945年10月21日、東京・世田谷区生まれ。72歳。立教高(現立教新座高)1年時から陸上を始め、200メートルと400メートルメートルを専門種目とした。64年、立大に入学後、長距離に転向した。68年に卒業し、医療衛生用品メーカーに就職。現在は退職し、千葉県内で悠々自適に暮らす。

 ◆立大陸上競技部 箱根駅伝が始まった1920年に創部。箱根駅伝には34年に初出場。57年には3位という最高成績を残したが、68年を最後に半世紀以上も箱根路から遠ざかっていた。100年超の部史の中で2人の五輪選手が誕生。1934~37年に4年連続で箱根駅伝に出場し、37年には10区区間賞に輝いた青地球磨男は36年ベルリン五輪800メートルに出場した(予選敗退)。岡田久美子は2016年リオ五輪女子20キロ競歩で16位。昨年の東京五輪でも同種目で15位と健闘した。

 ◆1968年(昭和43年)の主な出来事 2月にグルノーブル冬季五輪、10月にメキシコシティ夏季五輪が開催された。10月に川端康成がノーベル文学賞受賞。12月には東京・府中市で3億円強奪事件が発生した。プロ野球日本シリーズは巨人が阪急を4勝2敗で下し、V4。レコード大賞は「天使の誘惑」の黛ジュン。

 〇…現役の立大ランナーも歴代OBの思いをしっかりと受け止めている。11月に1万メートルで28分29秒24の立大新記録をマークした関口絢太(3年)は「55年前の先輩というと祖父母の年代ですよね。歴史を感じます。応援してくれる方々に喜んでもらえる走りをします」と表情を引き締めて話した。

 〇…立大陸上部の歴史は古く、興味深いエピソードが多く残されている。2010年11月発行の90周年記念誌によると、1950年代、部対抗リレーでは野球部と接戦を演じたという。同誌には「野球部は1走・高橋孝夫、2走・本屋敷錦吾、3走・長嶋茂雄、4走・杉浦忠という六大学野球のベストナインに輝いた選手が走っていた」と記されている。

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