「猪木のピークは74年」アリ戦で失った美しい「起承転結」…「新日本プロレス50年物語」著者・流智美氏に聞く

「新日本プロレス50年物語 週刊プロレス編 第1巻 昭和黄金期」を上梓した流智美氏。時代の空気と情熱が詰まった意欲作だ(カメラ・加藤弘士)
「新日本プロレス50年物語 週刊プロレス編 第1巻 昭和黄金期」を上梓した流智美氏。時代の空気と情熱が詰まった意欲作だ(カメラ・加藤弘士)

 プロレス評論家・流智美氏(65)の著書「新日本プロレス50年物語 週刊プロレス編 第1巻 昭和黄金期」(ベースボール・マガジン社・税抜き1700円)がマニアの間で話題となっている。単なる史実書ではなく、昭和の新日本プロレスを当時の流氏がどう感じていたか、時代のリアルな空気や情熱が詰まった意欲作だ。そして流氏は断言する。「アントニオ猪木の精神的、肉体的なピークは1974年である」と。(加藤弘士)

 ◇74年の猪木は「ファンがひれ伏すだけの1年」

 「昭和42年(1967年)の日本プロレス復帰から、私は欠かさずテレビでアントニオ猪木の試合を見てきました。1974年のアントニオ猪木は、ただひたすら素晴らしかった。我々ファンがひれ伏すだけの1年だったんです。この年の猪木がピークなのは間違いない。誰が何と言っても、これだけは譲れません」

 流氏は熱を帯びた口調でこう続けた。

 「3月19日、蔵前でのストロング小林戦に始まり、4月26日、広島での第1回ワールドリーグ戦・坂口征二戦。6月26日には大阪でのタイガー・ジェット・シン戦、8月のカール・ゴッチとの『実力世界一決定戦』2連戦(大阪府立、日大講堂)。10月10日の蔵前での大木金太郎戦、12月12日の蔵前、小林との再戦…全てにおいて、文句のつけようのない1年だったんです」

 本書は、水戸で多感な中学、高校時代を送った流氏が、思うように生観戦が許されない中でも新聞や雑誌から必死に情報を読み取り、週3回のプロレス中継を食い入るように見つめる姿が、イキイキと描写されている。73年に水戸一高に入学。74年は高校2年だった。

 「74年のビッグマッチがあまりにも素晴らしすぎて、『現役で大学に受かって、東京で好きなだけプロレスを見てやるんだ』という気持ちを高めてくれたんです。全日本、国際も含めて週3回のテレビ中継は1秒も欠かさずに見ていましたが、『東京に行って、生で見たい』というパッションを最も発してくれるのは、NET(現テレビ朝日)の『ワールドプロレスリング』でした。私の高校時代…73年から75年の3年間が、アントニオ猪木の全盛期中の全盛期ですよ」

 ◇大会場生観戦への飢餓感が受験勉強の原動力

 プロレスに限らずマニアというものは、個人史と愛するジャンルの歩みをリンクさせて、自分だけの大河ドラマを創り上げていくものだ。本書における流氏の青春と新日本プロレスも不思議な歩調で絡み合い、確かな成長を遂げていく。

 「水戸一高に入学した73年4月6日に、テレビ中継『ワールドプロレスリング』が始まるんです。入学式の日に猪木と坂口の合体が始まったから、勝手に『新日本は応援しなきゃいけないな』と思ってしまって。そこから新日本の歩みと自分の人生が、完全にシンクロしていくんですよ。そして根本には『東京で生観戦しているマニアにはかなわない。東京に行くしかない』という思いがあった。それが大学受験勉強の100%の原動力だったんです」

 実は記者も水戸一高のOBであり、流氏からは17歳下になる(生まれたのは奇しくも1974年だ)。同校にはOGの作家・恩田陸氏の小説「夜のピクニック」のモデルとなって有名になった学校行事「歩く会」がある。土日と2日間をかけて全校生徒が70キロを踏破するこの行事は、映画化や舞台化もされて人気を博した。流氏の行事の思い出もまた、新日本プロレスに絡んだものとして記憶している。

 「74年の歩く会は11月2、3日だったんです。前日の1日は金曜なんですが、夜に札幌で猪木とアーニー・ラッドのシングル生中継があってね。これがすごくいい試合で、最後は猪木が弓矢固めでラッドをギブアップさせるんですよ。すごい迫力で、興奮しちゃって、眠れなくなっちゃった。朝5時の水戸一高集合まで、一睡もできなかったんですよ。で、睡眠不足のままに70キロを歩きました。当時の猪木は、そのぐらいすごかったんです」

 ◇誰もが真剣、試合に釘付け…アリ戦の会場内の真実

 「猪木史」の中でも屈指の名勝負とされるボクシング世界ヘビー級王者・モハメド・アリとの異種格闘技戦は1976年6月26日、日本武道館で行われた。流氏は猛勉強の末、その年の3月、一橋大経済学部に現役合格。上京して3か月後だった。武道館の客席から15ラウンドを見つめた感想は、どんなものだったろうか。

 「シンプルでした。『良かった、負けなくて』。猪木が負けなくて良かったというよりも、『プロレスが助かった』と思ったんです。負けなきゃ何でも良かった。本当にそれだけです」

 プロレスが貶められること、弱く思われることだけはあってはならない-。それが偽らざる流氏の思いだった。見る者に格闘技の知識がなかった当時、「世紀の凡戦」とも称された同戦だが、流氏の実感は全く違う。

 「『世紀の凡戦』って、100%ウソでしょう。会場にいた人は、ずっと試合に釘付けになっていましたよ。『つまんなかった』という人は、テレビで見ていたヨカタ(一般人)でしょう。武道館で見ていた人は、15ラウンドが終わるまで、ずっと真剣に見ていました。『金返せ』という空気は、全くなかった。歴史は都合のいいように上書きされてしまうので、注意が必要なんです。あの日の会場の空気は、本当にすごかったですよ」

 一方でアリ戦以降、猪木のファイトは明らかに精彩を欠いたと証言する。

 「アリ戦の後のグダグダの試合は、僕としては見ていられなかったです。試合中に蹴りを繰り出すと、お客さんが『アリキックだ!』と沸くわけです。そこに猪木さんが引っ張られて、ウケを狙ってしまい、試合のリズムがめちゃくちゃになったと思います。アリ戦で得たものも大きかったけど、実は失ったものも大きかった。アリキックがなかったころの、美しい『起承転結』を見せていた頃の猪木が、僕にとっての全てですね」

 ◇青春まっただ中の苦悩、究極の選択

 一般の家庭にビデオデッキが普及していなかった70年代。青春まっただ中の流氏は苦悩する。高校時代、校内で高嶺の花だったガールフレンドからのコンサートの誘いに乗るべきか、あるいはいつも通りに土曜の夜、一人自室でプロレス中継を見ることにこだわるか。そして、流氏の決断は-。読者はその瞬間、胸をかき乱しながら、こう思うだろう。そんなプロレスへの真摯さが、現在のモンスター「流智美」を生み出したのであると。

 「昭和時代、ここまで真面目に新日本プロレスを見ていた人はいないぐらいの気持ちは、僕の中でありますよ。それがないと、この一冊は書けないです。ここまで真剣に見ていた人はそんなにいなかったと思う。上京前の生観戦に対する飢餓感、そして上京後、それが爆発したプロレス中心の日常…本当に熱かった。この本であの時代の空気を味わってもらえたら、うれしいですね」

 ◆流智美(ながれ・ともみ)1957年11月16日、茨城・水戸市生まれ。水戸二中、水戸一高を卒業後、76年に一橋大経済学部に進学。大学在学中にプロレス評論家・田鶴浜弘氏に弟子入り。81年4月から「月刊プロレス」などのプロレス雑誌に寄稿。83年7月創刊の「週刊プロレス」には現在に至るまで毎週欠かさずプロレス史の連載を継続中。18年には全米最大のアマレス&プロレス博物館「ナショナル・レスリング・ホール・オブ・フェイム」から招聘され、ライター部門で日本人初の殿堂入りを果たした。

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