藤波辰爾「50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」<68>「無我」旗揚げ戦…1995年10・29大阪ATC

スポーツ報知
藤波辰爾

 プロレス界のレジェンド藤波辰爾(68)が今年、デビュー51年目を迎えた。16歳で日本プロレスに入門し、1971年5月9日に岐阜市民センターでの新海弘勝(北沢幹之)戦でデビューした。スポーツ報知では半世紀を超える数々の名勝負を藤波に取材。「藤波辰爾、50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」と題し、毎週金曜日に連載する。68回目は「無我旗揚げ戦…1995年10・29大阪ATC」。

 1995年。藤波は団体内で独立組織を作った。それが「無我」だった。この年は1月4日に東京ドーム大会へ出場後、長期欠場に入り「無我」旗揚げへまい進した。

 「あの時は僕の心に火が付いた。当時は新日本も選手が増えて所帯が大きくなった。だけど、興行的に盛り上がっていなかった。どこがで刺激を与えることが必要だと思ったし、あのまま新日本の本隊にいたら、自分がやってきたことの存在感がなくなると思った。だからって新日本を出ようじゃない。新日本の中にいてやることの価値観、意義を模索していた」

 椎間板ヘルニアで長期欠場した直後に団体内で大相撲のような部屋別制度を提唱しユニット「ドラゴンボンバーズ」を立ち上げた。しかし、思いとは裏腹に軌道にのらなかった。その思いが藤波の中にくすぶっていた。

 「ドラゴンボンバーズで部屋別制度を提唱したんだけど、なかなか引っ張っていくことができなかった。その時の思いが無我につながっていた。だから、そこを発展させて団体の枠外に出てやりたかった。ただ、新日本に弓を引くんじゃない。あくまでも新日本に刺激を与えるためにやりたかった」

 社長の坂口征二に説明したが理解は得られなかった。 「坂口さんには自分の考えを説明したが、社長として会社全体を仕切る立場だし、坂口さん自身、社内がザワザワするのが好きじゃなかった。こっちは前例のないことをやるわけだから、なかなか理解は難しかった」

 それでも藤波は動いた。道場を大阪に作り、外国人の招へいも自ら海外へ行きスカウトした。そして10月29日、大阪・ATCホールで旗揚げ戦を迎えた。対戦相手はタリー・ブランチャードだった。70年代から80年代にかけてNWAのトップ戦線で戦ってたブランチャードは、この時、第一線を引き牧師となっていたが藤波が復帰を口説いた。

 「かつてのクラシカルなスタイルを復活させたいんだって彼を口説いてね。対戦してみたら、思っていた通りいい選手だった」

 試合は、ドラゴンスリーパーで藤波が勝利した。新しい道を歩み始めた。一連の団体内独立は、現場監督で永遠のライバルの長州は黙認していたという。

 「長州とは直接話をしなかった。恐らく長州も複雑だったと思う。彼は何も言わなかった。ただ、これは自分自身が感じることだけど、彼とは話はしてないけど、どっかでプロレスへの考えは共通するものがあった。だから、どこかで長州は分かっていたと思う」

(続く)

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