アントニオ猪木さんの死は、コンプライアンスという概念がなかった昭和時代の終わりか

スポーツ報知
2020年2月20日、アントニオ猪木の喜寿を祝う会で、長州力(中央左)をビンタするアントニオ猪木(同右)

 元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木さん(本名・猪木寛至)が1日、都内の自宅で亡くなった。79歳だった。

 猪木さんは、プロレスの革命児だった。

 1954年2月19日に蔵前国技館で大相撲の関脇だった力道山が柔道日本一の木村政彦とタッグを組んでシャープ兄弟と対戦した試合が現在につながるプロレス興行の始まりとなっている。

 この試合は前年の53年に本放送がスタートしたNHKと日本テレビがテレビ中継しテレビの普及とプロレス人気は戦後の日本列島を席巻した。

 しかし、力道山が1963年12月に39歳で急逝。ジャイアント馬場が日本プロレスのエースとして人気を支えたが、71年に猪木さんは「会社乗っ取り」を理由に日本プロレスを追放され新日本プロレスを設立。さらに翌72年に馬場も日本プロレスを退団し全日本プロレスを旗揚げし、国際プロレスを含め4団体まで増えると人気は分散し下降。プロレス人気は風前の灯火となった。

 この時、猪木さんは、当時のマネージャーを務めた新間寿氏、副社長の坂口征二らの協力を得てそれまで「禁断」とされてきたストロング小林との日本人対決(1974年3月19日、蔵前国技館)を敢行。さらには『プロレスこそ世界最強」の看板を掲げ、1976年6月26日に日本武道館でプロボクシング世界ヘビー級王者ムハマド・アリとの格闘技世界一決定戦を断行し、誰もが考えつかないマッチメイクでファンを引きつけプロレス人気を復興、ひいては「アントニオ猪木」自身がカリスマ化することに成功した。

 アイデアの源泉は『環状線理論」と自らが名付けた企画力だ。常にプロレスファン以外の世間を振り向かせることに熱を込めてきた。1987年10月の巌流島でのマサ斎藤との無観客マッチ、1989年4月24日、社内の誰もが反対する中で開催したプロレス界初の東京ドーム大会では、ソ連(現ロシア)から初のプロレスラーを招へいしプロレス界の枠を飛び越え、一般大衆へ話題を提供し興行の成功につなげてきた。

 その信念は、1989年に政界進出してからも変わらず湾岸戦争でのイラクの日本人人質解放、北朝鮮との交流など批判、中傷を浴びながらも常にスポットライトを浴びることに執念を燃やしてきた。

 リングを離れた部分では実業家として事業に失敗し多額な借金を背負うなど多くの批判を浴び、離れていく側近は数多かった。そうしたマイナス要素もすべて話題に提供し常に大衆を楽しませることにこだわり続けた猪木さん。ヒーローでもありアンチヒーロー。ベビーフェイスかと思えばヒールに変貌する。善か悪か。混濁しその実像をつかませなかった燃える闘魂。引退後の「闘魂ビンタ」も含めこれほど大衆を楽しませた人は類をみない。コンプライアンスという概念や言葉がなかった昭和時代を象徴する存在が猪木さんだった。猪木さんが旅立たれた令和4年10月1日は「昭和」の終止符と感じたのは私だけではないだろう。(福留 崇広)

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