1日に亡くなったアントニオ猪木さんはプロレス界での活躍以外に、政治家としても北朝鮮との独自のパイプを築き、湾岸戦争時には日本人の人質解放を実現させた。政府を超えた“猪木外交”に、外務省から抗議を受けてもどこ吹く風だった。永田町や霞が関の常識をぶち破る突破力で、国会でも「元気ですかーっ!」と絶叫した。一方で、金銭スキャンダルやトラブルなども噴出。政治の世界でも波乱万丈だった。
アントニオ猪木氏は、政治家としても類いまれな存在感を発揮した。
1989年、スポーツの精神を政治に取り入れ、平和を実現するという理念を掲げたスポーツ平和党(当時)を結党。同年参院選に「国会に卍固め」「消費税に延髄斬り」と訴え、出馬。街頭演説は「元気ですか!」で始まり、話すことがなくなると突然「1、2、3、ダーっ!」と締めるパターンで聴衆を沸かせた。当時の制度では投票は党名のみ。「アントニオ猪木」と書くと無効票になるなか、比例で1議席を獲得。プロレスラー初の国会議員となった。
議員になると独自外交を展開した。湾岸危機が発生した90年、イラクがクウェート在住日本人36人を人質にした際には、自らイラクに渡って日本人人質の解放に尽力した。外交ルートを無視した破天荒な行動は批判を浴びたが、結果を残した。
95年には北朝鮮で「平和のための平壌国際体育・文化祝典」を開催。その後も訪朝を重ね、金正恩朝鮮労働党総書記の側近らと独自のルートで接点を持った。訪朝は33回を数えた。13年11月には参院の許可を得ずに渡航を強行、登院停止30日の懲罰を受けたことも。
スポーツ平和党時代は、金銭スキャンダルなどが続出。週刊誌やワイドショーをにぎわせた。95年参院選に出馬したが落選。政界とは距離を置いた。だが、サプライズを好む猪木氏らしく、2013年参院選で、日本維新の会から比例代表で電撃出馬し、当選。18年ぶりに国政に復帰した。石原慎太郎氏(元東京都知事)から打診を受け、即断したと言い、一緒に「ダーっ!」と右手を振り上げた。
予算委員会では、開口一番「元気ですかーっ!」と絶叫。対面していた安倍晋三首相(当時)らを驚かせた。国会議員は高齢者が多いため、委員長からは「最初のご発声は元気が出るだけでなく、心臓に悪い方もいらっしゃると思います」と注意された。
19年6月、夏の参院選への出馬を見送る意向を表明。「元気ですかーっ! 長いような短いような、ちょうど体調を壊したもんですから」といつもの元気はなく、言葉少な。最後の登院時には「元気を売る人間が元気を売れなくなってしまった」との言葉を残し、国会を去った。