アントニオ猪木さん「眠るように」天国へ…最期をみとった実弟・猪木啓介さん「前日まであれだけ元気だったのに…」

試合に勝利し「ダー!」を決めるアントニオ猪木さん(1992年撮影)
試合に勝利し「ダー!」を決めるアントニオ猪木さん(1992年撮影)

 燃える闘魂、完全燃焼―。元プロレスラーで参院議員も務めたアントニオ猪木(本名・猪木寛至=いのき・かんじ)さんが、1日午前7時40分、東京・港区の自宅で心不全のため亡くなった。79歳だった。2018年に発症した難病指定「心アミロイドーシス」で闘病していた。ムハマド・アリ戦などの歴史的名勝負を残し、89年にプロレス界初の国会議員としても当選。リング内外で闘魂を燃焼し続けた猪木さんの通夜、葬儀は家族葬で営まれ、後日に「お別れの会」を執り行う予定。

 猪木さんの燃える闘魂の炎は静かに消えた。港区内の自宅で最期をみとった実弟の猪木啓介さんは「兄は苦しむことなく本当に眠るように逝きました。穏やかな顔でした」と明かした。

 心アミロイドーシスとの闘病生活を送っていた猪木さんは、亡くなる4日前から容体が悪化し酸素ボンベで酸素を吸入する措置が必要になっていた。啓介さんによると、猪木さんは酸素吸入を嫌がっていたという。体調に波はあったが、亡くなる前日9月30日に、猪木さんから「お前ちょっと部屋へ来いよ」と呼ばれ、対面した。

 その時の様子を啓介さんは「話はできませんでしたが、目もはっきりしてよくなったと思っていたんですが、今朝に容体が急変しました」と明かした。猪木さんの自宅近くに住む啓介さんは午前6時半に猪木さんの体調を管理する看護師から容体が急変したことで呼ばれ、駆けつけた。医師も到着したが、午前7時40分に啓介さんと数人のスタッフに見守られながら「眠るように」息を引き取った。啓介さんは「前日まであれだけ元気だったのに何でかな…と思って。ちょっと早いなと思います。今はただ寂しいです」と声を詰まらせた。

東京ドームを訪れたアントニオ猪木さん(2011年撮影)
東京ドームを訪れたアントニオ猪木さん(2011年撮影)

 猪木さんは、1943年2月20日、横浜市鶴見区生まれ。13歳で家族とブラジルに移住し17歳で現地で力道山にスカウトされ60年4月に日本プロレスに入門。9月30日に台東区体育館での大木金太郎戦でデビューした。以後、ジャイアント馬場さんとのタッグ「BI砲」で力道山亡き後の日本プロレスを支えたが、71年12月に同団体から追放。72年3月6日に東京・大田区体育館で新日本プロレスを旗揚げした。76年6月にプロボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリと格闘技世界一決定戦で対戦するなど、プロレス界に一時代を築いた。タイガー・ジェット・シン、ストロング小林との名勝負は伝説として語り継がれている。

 リング外では89年の参院選当選、イラクでの日本人人質解放、北朝鮮との交流など政治家としても活躍した。98年4月4日にレスラー引退。その後も政治家、実業家など幅広く活動したが20年に難病「心アミロイドーシス」を18年に発症していたことを告白し闘病生活を送っていた。8月28日に日本テレビ系24時間テレビに生出演した姿が公の場での最後となった。

 長い闘いの歴史に終止符を打った猪木さん。入るお墓は決まっている。生前の今年5月に青森県内に「アントニオ猪木家」のお墓を建立。愛妻の田鶴子(たづこ)さん(享年62)が眠るお墓で安らかな眠りにつく。
(福留 崇広)

 ◆アントニオ猪木 本名・猪木寛至(いのき・かんじ)。1943年2月20日、神奈川・横浜市生まれ。家族で移住していたブラジルで力道山にスカウトされ60年に帰国。同年9月30日、日本プロレスでデビュー。72年新日本プロレス旗揚げ。89年スポーツ平和党結党、参院選で初当選(1期6年)。95年に北朝鮮で平和祝典を開催。98年4月4日に引退。2013年の参院選で日本維新の会から出馬し当選、1期6年で引退。現役時代のサイズは190センチ、102キロ。

試合に勝利し「ダー!」を決めるアントニオ猪木さん(1992年撮影)
東京ドームを訪れたアントニオ猪木さん(2011年撮影)
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