「巌流島の決闘」も10月だった 秋風に吹かれ思い出すアントニオ猪木VSマサ斎藤…元担当記者が悼む

スポーツ報知

 元プロレスラーで元参院議員のアントニオ猪木さん(本名・猪木寛至)が1日、都内の自宅で亡くなった。79歳だった。元担当記者が猪木さんの思い出を振り返った。

 1987年10月4日、猪木さんはマサ斎藤さんと山口・下関市の船島(通称・巌流島)で一騎打ちを行った。宮本武蔵―佐々木小次郎よろしく、「巌流島の決闘」と言われた一戦だ。

 駆け出し記者だった私は、試合前の“あおり”から取材に当たった。猪木さんが突然、「巌流島で試合をする」と宣言。ただ、急な発案で対戦相手が決まらない。マサさんに白羽の矢が立ったが、マサさんに取材に行くと「俺は聞いていない」とけんもほろろ。だが、兵庫・小野市での巡業の試合前、斎藤さんが突然、私を呼んで「試合を受けてもいい。ただし、やるなら命がけだ。砂浜の上にリングを立ててノーロープデスマッチなんかどうだ?」と挑発。一気に猪木―斎藤戦のムードが高まった。

 その後、ルール無用のデスマッチとして行われることが決定。試合開始は10月4日の夜明け以降、いつでもOK。決着は10カウントまたはギブアップ、レフェリーはなし、立会人は2人。そして「反則自由」とマサさんの主張が一部認められた。ルールの最後に記された文言は「お互いのプライドがルールだ」。試合前日、島へ下見に行ったが、観光船が座礁するハプニングがあった。その時から異様な空気を感じた。

 朝5時の船で島に渡った。いつ試合が始まってもいいルールだから、関係者やマスコミは2人を待つしかなかった。猪木さん、マサさんが我々の前に姿を見せたのが夕方4時半頃。だが、中々リングに上がらない。ようやくマサさんがリングに上がる。だが猪木さんは控えテントからチラチラと姿を見せるだけ。マサさんが野太い声で「いのーきぃ!」と呼ぶが出てこない。この構図で小次郎がマサさん、猪木さんが武蔵だと感じた。

 午後5時過ぎ、ようやく2人は体をぶつけ合う。無観客試合という、当時としては異例のデスマッチだ。両雄のぶつかり合う音が静かな島に波の音をかき消して響いた。バックの取り合いなど、グラウンドでの展開が1時間近く続く。2人はリングを降りて、もつれ合って砂浜に落ちていく。我々が見えないところで殴り、投げ合った。パンチの応酬。猪木さんの「弓を引くストレート」でマサさんの額が割れた。今度は元東京五輪レスリング代表のごついパンチが、燃える闘魂の額を裂いた。殴り合って流血は異例だ。

 暗くなるとかがり火がたかれた。揺らめく炎の先に、2人の男が戦い続ける姿が浮かび上がった。猪木さんがマサさんをかがり火の一つにたたきつけた。火の粉が夕闇の空にパッと散った場面を、後で猪木さんに「まるで映画の1シーンを見るようでした」と伝えたら「そうかぁ」と言って笑った。満足そうにあごに手をやった姿が忘れられない。

 2時間5分14秒の死闘は猪木さんがスリーパーホールド(裸締め)でマサさんを失神させてTKO決着。リング上で倒れ込む相手を尻目に、猪木さんはフラフラとリングしたをさまよい歩いた。「底なし沼」と呼ばれた湿地帯に入り込んだのを見て、みんなが慌てて追いかけた。私は小舟で真っ暗な関門海峡の波に揺られて、マサさんを病院へ運ぶボートを追いかけた。下関市内の国立病院で治療を受けたマサさんは取材に応じてくれた。開口一番「どうだった?」と聞かれたので「最高の戦いでした」と返すとヒゲもじゃの口元を緩めてニヤリ。「猪木は強かったなあ」としみじみ言って、優しく笑った。

 2人とももう、この世にいないなんて…。少し肌寒い秋風に吹かれる時期になると、2人の勇者の、鬼の形相と笑顔が浮かんでくる。今年の秋風はすこぶる寒い。合掌。(運動第二部・谷口 隆俊)

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