三遊亭円楽さん 江戸っ子らしい義理人情に助けられたあの日…担当記者が悼む

つえを持ちVサインする三遊亭円楽さん
つえを持ちVサインする三遊亭円楽さん

 30日に死去した三遊亭円楽さんは今年7月、スポーツ報知の取材に応じ、復帰へ決意や大名跡・三遊亭円生への思いを語っていた。本紙記者が円楽さんの素顔と生前に語っていた本音を明かす。

 あっ、瀬古利彦さんだ! 初めてお会いしたのは演芸担当になったばかりの2005年だった。自身の所属する円楽一門会の活動をPRする手紙が会社に届き、「笑点」の収録終わりで取材した。子供の頃から師匠の「笑点」での瀬古さんのモノマネが大好きで緊張していた私に、楽太郎さん(当時)は若々しいスタイリッシュな私服でさっそうと登場。拍子抜けするほど気さくだった。

 頭の回転が速く、知的な発言が多い「笑点」での回答と同様、落語でも秒単位で間を考え、ギャグを入れることにも理詰めでこだわった。その一方で、両国生まれの江戸っ子らしく義理人情に厚い人だった。

 師匠の5代目円楽さんが存命中に、名跡を譲るとの襲名ニュースを聞きつけ、尋ねると真摯(しんし)に取材に向き合ってくれた。記事を掲載すると携帯電話の留守電に吹き込んだところ、折り返しがあった。「今、花火大会の司会が終わったところ」。ライバル紙のイベントだった。長年務めていたこともあり関係も深く、恩義もあったはずだ。情報が漏れてしまうかもと覚悟したが、ウチだけのスクープにしてくれた。東北支局への異動が決まり楽天担当になるとあいさつに行くと「オレの知り合いが球団にいるから」とその場で電話をして関係をつないでもらった。本当に感謝しかない。

 今年、脳梗塞(こうそく)から退院した時も、電話をかけると「良く聞こえないな。オレより滑舌悪いんじゃないの?」とくぐもった声ながらも強烈な毒をくらった。復帰の際には話を聞かせてください―とお願いすると、7月にわざわざ来社して闘病生活や今後の夢などを熱く語ってくれた。病気の影響で最初はたどたどしかったが、次第に冗舌となり熱を帯びていったことを強烈に覚えている。

 ここ数年は両国寄席の楽屋を訪ねると、「付き合えよ」と高座前にもかかわらずビールをグビリ。「医者にも酒は止められていないから」と缶チューハイで何度も乾杯した。体調が悪く、出番ギリギリまで楽屋で横になりながらも、高座ではそんなことをみじんも感じさせない姿も見てきた。

 落語家として優れたプレーヤーである一方、「博多・天神落語まつり」などを開催するなどプロデューサー的な役割も果たした。「自分が一番だ」と自負する落語家が多い中、出演落語家の顔が並ぶパンフレットを指さし「コレとコレとコレ。オレはかなわない」と言える潔さもあった。数年前だ。「名人になるのは諦めた。オレは達人を目指す」。あっぱれな落語家人生だった。でも、もう少し、6代目と話をしていたかった。(高柳 義人)

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