多くの逆風の中、“真の本塁打記録”1961年のマリスとは…

スポーツ報知
ロジャー・マリス(AP)

 先週のヤンキー・スタジアムの試合からヤンキースの試合にはジャッジの両親とともに、1961年に当時の米大リーグ新記録を作ったロジャー・マリスの息子たちが見守っている。

 1985年にマリスはリンパがんで亡くなっており、1998年にカージナルスのマーク・マグワイア内野手が70本の新記録を作った時もマリスの遺児がセントルイスに招待され、マグワイアが62号を放った時は一塁側スタンドに駆け付け感動的な抱擁が演じられた。

 シーズン本塁打記録は2001年にバリー・ボンズ(ジャイアンツ)が73本まで伸ばしたが、その後禁止薬物使用が疑われるようになってからは、サミー・ソーサ(カブス)を含め62本以上打っている1990年代後半から2000年代初頭に生まれた6度の本塁打記録に関しては、当時の記録を快く思わないファンが多く、1961年ロジャー・マリス(ヤンキース)の61本こそ“真の本塁打記録”との声が少なくなかった。

 1961年はア・リーグが8球団からエンゼルスと第2次セネタース(現レンジャーズ)が加盟。投手力が低下したこともあって本塁打が急増。中でもマリスとチームメートで1956年に3冠王にも輝いたミッキー・マントルは本塁打を量産し合って打ちまくり、2人をメディアは「M&Mボーイズ」と名づけた。

 7月末にはマリス40本、マントルも39本で1927年ベーブ・ルースの60本を抜く勢いだった。ところがルースの現役時代のゴーストライターだったフリック・コミッショナーがこの年から162試合制になったことで「(1シーズン60本塁打の)ベーブ・ルースは154試合制で作った記録。154試合までに61本を打たないと新記録と認めない」との声明を発表。また、ヤンキース生え抜きのマントルに記録を作らせたいとしていたファンや、英雄ルースの信奉者などからマリスに多くの脅迫状が届き、その影響から脱毛症にまでなったという。それでもマリスは最終戦で61号を放って記録を塗りかえたが、地元ヤンキー・スタジアムの入場者は2万1354人だった。翌年発行のレコードブックには注釈を意味する*で154試合制はルース、162試合制はマリスと掲載されていたが、本塁打記録が正式に認めたのはマリスが亡くなった6年後の1991年だった。

蛭間 豊章(ベースボール・アナリスト)

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