【阪神】「甲子園のアイドル」荒木大輔にプロ初勝利を献上…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録

スポーツ報知
1981年夏の甲子園で力投する早実・荒木大輔投手。1回戦では高知を1安打10奪三振で完封した

 甲子園のスタンドに観客が戻り、夏の高校野球が盛り上がっています。今年も近江・山田君や高松商・浅野君、大阪桐蔭・松尾君など将来性のある選手がたくさんいますね。

 さて、その甲子園から日本中に“大ちゃんフィーバー”を巻き起こしたアイドル、荒木大輔投手のことを書きます。彼は私がヤクルトのコーチになった1987年に初めて2桁勝利(10勝)を挙げ、人気だけでなく実力派投手の仲間入りをしました。

 しかし、同じチームでコーチと選手の関係だったとはいえ、私は野手部門のコーチ。投手部門は小谷正勝君が見ていましたから、荒木君との接点は意外に少ないのです。

 荒木君の思い出話はそれ以前のことになります。実は、彼には痛い目にあっていて…。何を隠そう。彼のプロ入り初先発、初勝利の相手は私が監督をしていた時の阪神だったのです。

 1983年5月19日。神宮球場。ルーキーの荒木は予告先発をしてきました。前宣伝してあおった球団の努力のかいもあってか、巨人戦並みの4万7000人の観客が集まりました。

 甲子園のアイドルに負けるわけにはいかない。みんな気合いが入っていました。しかし、荒木君の投球は老かいでした。150キロを越える剛球にねじ伏せられたのなら降参するしかないのですが、ひょいひょいと内外角の低めを突いて、ベテランのような投球をしてくる。こちらはチャンスは作るのにあと1本が出ない。いい当たりをしても正面を突いたり…。結局5回まで投げられて3安打、無失点に抑えられました。

 武上監督にすれば、狙い通りの展開。6回からはエースの尾花高夫を投入してきました。うちは8回に1点を取るのがやっと。2―1でまんまと逃げ切られ、荒木君にプロ初勝利を献上してしまいました。

 試合の内容以上に覚えていることがあります。試合後のベンチです。相手ルーキー投手に初勝利をさせた試合後、私は周りを囲んだ報道陣にたったひとこと、前代未聞? のコメントを発しました。

 「絶句!」。

 それだけ言い残すと、私は報道陣に背を向けて、ベンチを出ました。「〇〇は絶句した」などとスポーツ紙にはよく書かれますが、実際に自分で「絶句」と言った野球人は私だけでしょう(笑い)。ルーキーにひねられた悔しさ。それが精一杯の抵抗だったのかもしれません。

 実は、その1か月前、同じような体験をしています。4月16日の巨人戦。地元甲子園球場で、相手先発は槙原寛己。プロ初登板、初先発した2年目の若手に完全に抑えられて初完封で初勝利を挙げられているのです。

 試合中、選手がベンチに帰って来る度に「(槙原の球は)速いぞ」と言い合っていました。まだスライダーを操る前の槙原で、球種はストレートとカーブしかありませんでした。そのカーブも曲がりが少ない。ほとんど真っすぐしかないのですが、その真っすぐにスピードと力がありました。

 試合は両軍無得点のまま延長に入り、10回、1―0で敗れました。5安打、6四死球、9奪三振。データで見ると、エラーの走者を含めて12人も塁上に出しているのに、荒れ球に狙い球が絞れず、完全な力負けでした。荒木といい、槙原といい、若い投手に初対戦でプロ初勝利の甘い水を飲ませてしまうなんて、私とタイガースはどれだけ気前がよかったのでしょう。

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。82歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

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