藤波辰爾「50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」<57>腰を痛めたベイダー戦…1989年6・22佐久市総合体育館

スポーツ報知
藤波辰爾

 プロレス界のレジェンド藤波辰爾(68)が今年、デビュー51年目を迎えた。16歳で日本プロレスに入門し、1971年5月9日に岐阜市民センターでの新海弘勝(北沢幹之)戦でデビューした。スポーツ報知では半世紀を超える数々の名勝負を藤波に取材。「藤波辰爾、50年の名勝負数え唄~WRESTLING JOURNEY~」と題し、毎週金曜日に連載する。57回目は「腰を痛めたベイダー戦…1989年6・22佐久市総合体育館」。

 1989年4月24日にプロレス界で初めて東京ドームで興行を開催した新日本プロレス。興行は成功し会社は、上昇ムードとなった。一方、藤波自身は数年前から悩まされていた腰の痛みが激しさを増していた。

 「痛みを感じていたんだけど、“そのうち何とかなるわ”と病院で診てもらうことは考えてなかった。何より試合を休むわけにはいかないから、そんな思いは浮かばなかった。ただ、痛みが激しいからこのころは、試合前と終わった後には付け人に腰を踏んでもらってほぐすとか、そんなマッサージをやっていた。今、思えば、それが良くなかった」

 眠っていた腰の“爆弾”がさく裂したのが6月22日、長野・佐久市総合体育館でのビッグバン・ベイダー戦だった。テレビマッチとなったメインイベントでベイダーをバックドロップで投げた時、激痛が走った。さらにベイダーに高角度のバックドロップを浴びた時、まるで電流が走るようにすさまじい衝撃が全身を貫いた。

 「あのバックドロップは今でも鮮明に覚えている。まるで二階の高さまで掲げ上げられてそのままマットにたたき落とされた。今もスローモーションのように掲げ上げられてから落とされるまでのシーンが頭に残っている」

 動けなくなるほどの痛みだったが試合を放棄するわけにはいかない。激痛をこらえ試合を続行し最後は首固めでフォールを奪った。

 「試合後は控室で動けなくなった。今までは痛みをごまかしてきたけれど、さすがに、この時は無理だと感じた。この日は会場まで東京から自分で車を運転して来ていたんだけど、とてもじゃなくて運転なんかできない。だからスタッフに運転してもらって東京の自宅まで戻った」

 帰宅する途中に自宅へ電話し妻のかおりに深夜の救急病院へ行く手配を頼んだ。帰宅するとそのまま病院へ行き、腰椎の椎間板ヘルニアと診断された。欠場を通告されたが、藤波は24日の北海道夕張市総合体育館から7月4日の青森・五所河原市体育館までの10試合に出場する。

 「地方のプロモーターには僕が出ることで興行を売っているわけだから休めば、減額になってしまう。会社に迷惑をかけることは自分はしたくなかった」

 しかも、この時は絶対的エースのアントニオ猪木が参院選出馬で欠場していた。猪木の不在ですでにプロモーターには損害を与えていた。加えて藤波が欠場となればプロモーターからの信用問題に発展する。興行会社を支えるために藤波は自らの負傷を犠牲にしたのだ。

 「ただ、もうそこで限界だった。会社には迷惑をかけるけど休むしかなかった。そこから自分にとって最悪の日々が始まった」

 後に藤波自身が「地獄」と表現した長期欠場に突入する。(続く)

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