阪神に入ってもらいたかった高橋由伸君と今は同僚…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<終>

スポーツ報知
安藤統男さん(2012年のOB戦)

 ふとしたきっかけで書き始めたこのコラム。今回が最終回になりました。2年近くもの長い間続けられたのはご愛読いただいた皆さんのお陰です。ありがとうございました。

 さて、最終回。プロ野球界に入ってから60年、これまでお世話になった方々へ感謝の意味を込めて、思い出話を書こうと思います。皆さん方にはなじみがない名前も出てくるかもしれませんが「年寄りの昔話」にお付き合い下さい。

 まず、阪神でお世話になった人たちから。末永正昭君。現役引退後、私が2軍監督の時も1軍監督の時もマネジャーとして力を貸してくれました。観察眼が鋭く、遠征先で外出する選手が少ないのを見て「みんな疲れてるようです。練習を抑え気味にして、休ませたらどうでしょう」などと提言してくれることもありました。忘れられないのは、1995年の阪神・淡路大震災の時。監督を辞めてから10年以上もたっていたのですが、交通機関がストップしている中、7キロ近く離れた自宅から自転車に乗って、私の自宅をのぞきにきてくれました。「大丈夫でしたか?」の声に、地獄で仏の気分になりました。

 本多達也君もよくやってくれました。ランディ・バースを取った時、国際担当、通訳として大活躍してくれました。彼に獲得候補選手のリストを渡すと、性格まできっちりと調べ上げてくれました。バースを取れたのも本多君の力が大きかった。私があまりに頼りにするので「監督、お願いですから1時間だけ眠らせてください」と懇願されたこともありました(笑い)。

 上田次朗君。阪神戦の実況で時々解説をしています。まだまだ元気です。73年には22勝も挙げるなど技巧派投手として活躍しましたが、その後南海へ移籍しました。私が監督になった年に「将来的にチームに必要な人材」と思ったので、フロントにお願いして取ってもらいました。彼はその時のことをずっと感謝しているらしく「阪神に帰してくれた安藤さんには足を向けて寝られない」と言っているそうです。今でも「暑いですね。体に気を付けて下さい」と、体調を気遣ってくれるメールが来ます。義理人情に厚い男です。

 上田君はアンダースローでしたが、もう1人、アンダースローだった男に助けられました。大町定夫君です。私がOB会長をしていた時、球団職員としてOB会との折衝役に当たってくれました。現役時代の制球力のようなていねいな仕事のお陰で、OB会と球団の関係がスムーズに運ぶようになりました。

 ヤクルトでの3年間のコーチ生活では、松井優典マネジャー、原田要サブマネジャーにお世話になりました。松井君は単身赴任していた私が熱を出した時、深夜まで付き添って看病をしてくれました。松井君、あの時はありがとう。

 さて、ヤクルトのコーチを最後に野球評論家に戻った私ですが、キャンプの取材で訪れると、チームの監督さんにお世話になります。かつて中日に行った時には、落合博満監督が監督室に呼んでくれて、コーヒーを飲みながら07年の日本ハムとの日本シリーズで完全試合を続けていた山井大介を9回、岩瀬仁紀に代えた時の裏話を聞かせてくれました。

 巨人・原辰徳監督が“原タワー”に上げてくれたことは前にも書きましたが、巨人では高橋由伸前監督も歓待してくれました。阪神OBの私は、慶大の後輩・高橋君には阪神に入ってもらいたかったのですが、残念ながら縦じまのユニホームは実現しませんでした。でも、今では2人ともスポーツ報知評論家。縁を感じます。

 さて、突然ですが最後におわびをひと言だけ。猿木忠男君、杉田由嗣君、長島裕二君。私が阪神の監督をしていた時のチームのトレーナーです。監督は選手が故障をした時、1日も早い復帰を願います。そのために、トレーナーには「いつ戻れるんだ?」「〇日には出られるのか?」「とにかく早く戻してくれ」などと、無理難題を突き付けます。彼らは返答に困ったと思いますが、きつい要求によく応えてくれました。今でも申し訳なく思います。この場を借りて謝りたいと思います。

 さて、プロ野球界での60年間。楽しい思い出だけではありません。嫌なこともたくさんありました。でも、ここではあえてポジティブに明るい話だけを書いてきました。行数の関係で紹介出来なかった先輩の方々、すみません。後輩たち、ごめんなさい。また、読者の皆さん、老体の2年近くもの長話にお付き合いいただき、ありがとうございました。また、どこかでお会いすることがあると思います。その時まで…。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。83歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

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