◆北京五輪サブリンクでの9曲 (2022年2月18日)
ギフトのような40分間だった。2月18日の北京五輪サブリンク。すでに競技を終えていた羽生結弦が、過去のプログラム9曲をメドレーのように滑った。
「心の赴くままにスケートしました」と話した、この日のステージは「ホープ&レガシー」で幕を開けた。2曲目はジュニア時代の「パガニーニの主題による狂詩曲」。「ノートルダム・ド・パリ」「ロミオとジュリエット」。メモを取るのに必死だった。「バラード第1番」はフルバージョンで披露した。トリプルアクセル、4回転―3回転の連続トウループ、3回転ルッツの構成をノーミスで滑りきると、自ら拍手をした。
半袖になり突入した6曲目の「秋によせて」は、4回転―3回転の連続トウループ。終えたあたりで、呼吸を必死に整えた。いつもと同じ、全力の羽生だ。大切にしてきたプログラム「ホワイト・レジェンド」と「ノッテ・ステラータ」を感情を込めて舞った。ディレードアクセル(1回転半)はとてつもなく高く、優美で、息をのんだ。
終了時間が近づいていた。私は「SEIMEI、SEIMEI」と呪文を唱えるように祈った。残り2分。羽生がリンクサイドの曲かけ担当の元に向かった。来た、あの曲だ。和テイストの音色に、会場の熱量は確実に上がった。2018年平昌五輪の興奮が瞬時によみがえった。流れたパートは、クライマックスのコレオシークエンスだった。
スタートポジションは、メディアの立ち見席の目の前だった。天を見上げ、集中を高めながら羽生が壁際まで来た。我々に背を向け、位置に着いた。羽生の背中越しに広がるリンクと五輪のマーク。この時の景色を、私は生涯忘れることはないだろう。
選手の滑りを同じ高さで真後ろから見られる機会は他ではない。「SEIMEI」の初アングルに、心が躍った。羽生の背中は美しい。背中が語るのだ。ただスケートがしたい。スケートがうまくなりたい。始まりは、その一心だったに違いない。気づかぬうちに増えていた背負った荷物を振り払うように、「行くぞ」のかけ声がリンクに響いた。右腕、左腕の「ドゥン、ドゥン」からの一気の加速。ハイドロブレーディングから、イナバウアー。両手を広げてフィニッシュを決めた。無観客のサブリンクに拍手がわき起こった。
「今でも平昌のあの最後のコレオステップの時は、あの瞬間は絶対に忘れてないですし、あれは一生忘れないと思いますけど。全力でコレオシークエンスをやっているところを見ていただく機会ってないですし、これがアイスショーだったり試合だったりしたら、やっぱり抑えてやっちゃいますし、そんな体力ないですし。だから本当に、自分の全力を込めたステップシークエンスを見せることができてよかったと思います」
会場の熱気、その後のミックスゾーンの空気感。どちらも、これまで味わったことのないものだった。この日の9曲について述べた後、羽生は視線を斜め上に向けながら語り出した。この日はメインリンクでエキシビションの練習があった。
「もし僕の方のこっちの、僕が自由に演技するつもりで来た練習の方を、もし選んでいただけるのであれば、みなさんへの感謝の思いを込めて、今までの道のりを、ありがとうございましたって思いながら滑りたいなって思って滑ってました」
「道のり」に思いを馳(は)せた。「羽生結弦のスケートを見ないわけがない」。心の中で、静かに強く繰り返した。普段なら我先にと矢継ぎ早に質問を飛ばし合う記者たちが静まりかえった。
「あら、大丈夫?」
しんみりしたメディアを気遣い、羽生が笑って言った。つられるように、その場にいた記者たちも笑った。メインリンクよりも幾分地味で、小さな作りのサブリンクでの出来事。この時初めて、北京五輪が終わったことを実感した。(高木 恵)
◆矢口が撮った
北京五輪男子フリーから4日後の2月14日、羽生が氷上に戻ってきた。待ち受けたカメラマン一人ひとりに会釈してサブリンクを旋回。羽生の特別過ぎるステージが始まった。
「天と地と」「オペラ座の怪人」「パリの散歩道」「バラード第1番」、そして最後の「SEIMEI」…。4日間にわたって計14プログラムを撮影エリアの方を向いて演じてくれた。本来ならジャッジスタンドがあるから、真正面から羽生の演技を見られる機会は絶対にない。他のカメラマンが放つ空気を読むことを放棄した私は終始、ど真ん中に居続けた。初めて至近距離で正対した羽生は、速かった。レンズワークが追いつかず、何度もファインダーからフレームアウトした。「一番うまい今」の彼を捉える技術が私にはまだ備わっていなかった。でも、楽しかった。何より、言葉ではない羽生からの感謝の気持ちが心に染みた。
北京五輪最終日の2月20日のエキシビション。フィナーレが終了して、羽生がリンクから引き揚げてくる。私はカメラを構えていなかった。素晴らしい景色を見せてくれた羽生に絶対に伝えたかった。それは写真を撮るよりも大切なことだった。「ありがとうございました」。通り過ぎる背中に声をかけた。羽生は振り返って右手を胸に当てて深々と頭を下げてくれた。次にリンクで会えるのは、いつになるだろう。もし声をかけられるとしたら、その時の言葉は決まっている。これからもよろしくお願いします、羽生選手。(カメラ・矢口 亨)