「天才打者」藤田平と「浪花の春団治」川藤幸三…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<38>

スポーツ報知
1978年9月5日、甲子園球場での阪神・巨人戦。9回2死一、二塁で阪神の代打・川藤幸三(右)が左翼線へサヨナラ二塁打を決めた(左は中村勝広)

 小山正明さん、村山実さん、江夏豊君、掛布雅之君…。これまでに、阪神の歴史を語る上で欠かせない人たちのことを書いてきました。しかし、チームを支えたスーパースターはまだいます。今回はそんな名選手と、存在感で記憶に残っている選手のことを書きます。

 藤田平君は1965年の第1回ドラフト会議で2位に指名されて入団しました。彼と初めて会ったのは66年の安芸キャンプでした。市立和歌山商を卒業したばかりの彼と、遊撃のポジションで一緒にノックを受けました。

 プロ野球選手は新人が入って来ると、誰もがキャンプの練習を見て「こいつには負けないな」とか「手ごわいのが入ってきたぞ」と、新人の力を計ります。それで安心したり、気を引き締めたりするのです。

 藤田君の守備を見た瞬間、思いました。「こいつにはすぐ抜かれるな」と。「俺はこいつにショートから追い出される」と覚悟しました。流れるようなフットワーク、柔らかいハンドリング、正確なスローイング。高校を出たばかりの選手の守備ではありませんでした。バッティングも素晴らしく、内角のさばき方は天才的。内角の難しい球を右翼線に強烈なライナーではじき返すのを何度も見ました。

 覚悟した通りでした。私はその後、二塁へコンバートされました。しかし、その方が私の野球人生にとってよかった。何しろ、藤田君は19年も現役生活を続け、首位打者も取り、2064安打も打ったのですから。彼が阪神の生え抜きとして初めて打った2000本安打も、現役最後の安打も、監督として見届けました。職人タイプで、口数も少なかったから地味な選手のように映っていたかもしれませんが、間違いなく天才打者でした。

 藤田君のように、バットとグラブでチームに貢献してくれた選手がいた一方、精神的にチームを盛り上げてくれた選手もいます。負けている時、チームにはベンチを明るくするムードメーカーが必要です。「浪花の春団治」こと、川藤幸三君の出番です。

 私が監督の時、劣勢の試合で代打を探していると、自分で自分の顔を指さして「オレ!」「オレを使って!」とアピールしてきます。「お前じゃないよ」と思わず口にしたこともありました(笑い)。

 川藤君が球団から“引退勧告”を受け、2軍の打撃コーチを用意された時、その話を彼に伝えたのが監督の私でした。現役続行を強く希望した彼は、フロントとの話し合いの末、半分の年俸で契約しました。私が監督として「若い選手と力が一緒なら若い選手を使うぞ」と言ったら、キャンプから猛烈に練習をして、代打の切り札として復活する活躍をしました。見事な反骨精神でした。

 川藤君の傑作エピソードと言えば、ご存じ「サチコメンタイコ」や「カマスのペケマル」。もちろん「辛子明太子」と「CAMUS(カミュ)のXO」です。川藤君がそう読み間違えたと球界では通っています。マウイでキャンプを張った時、「日本に電話するのに『コレステロール、プリーズ』と言うてるのに、交換手は分からんのや」とぼやいていた話もあります。これも川藤君が作った“ネタ”の1つだったのでしょうか。真偽のほどは分かりませんが、私は彼が座を盛り上げるために、笑い話を自作自演していたのではないかと思うのです。川藤幸三とはそういう男です。

 神経が細やかで、気配りが出来る。OB会長をやった時も「企画は出来ないけど、体で動きます」と自らOBに電話して根回しをしてくれるなど、よく動いてくれました。川藤幸三。ナイスガイです。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。83歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は8月15日正午配信予定。

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