スポーツ報知のカメラマンがあの日、その時を切りとった膨大な写真の中から、撮影者が記憶に残るショットを紹介。当時の状況や思い出だけでなく、今だから話せる”ウラ話”を明かします。当時の空気とともにお楽しみください。

曙と貴乃花が硫黄島で鎮魂の横綱土俵入り …カメラマンが見た瞬間の記憶

太平洋戦争末期、日米が激しい戦闘をした硫黄島の摺鉢山を望む鎮魂の碑に向かって土俵入りをした横綱・曙。戦後50年を経て日米出身の両横綱による鎮魂土俵入りが実現した(カメラ・杉山 彰一)
太平洋戦争末期、日米が激しい戦闘をした硫黄島の摺鉢山を望む鎮魂の碑に向かって土俵入りをした横綱・曙。戦後50年を経て日米出身の両横綱による鎮魂土俵入りが実現した(カメラ・杉山 彰一)

◆1995年6月4日、横綱が硫黄島で鎮魂の土俵入り(杉山彰一カメラマン)

 ◆激戦地・摺鉢山を写し込むためあえて後方から 

 厳かな瞬間だった。四股のあと深く腰を落とした横綱・曙がすっと右手を伸ばし、鎮魂の丘に立つ碑と、その奥に見える摺鉢(すりばち)山に向かってじりじりとせり上がった。気迫のこもった力強い土俵入りだった。

 戦後50年を迎えたこの年、日米戦没将兵鎮魂のための横綱土俵入りが、太平洋戦争末期の激戦地となった硫黄島で行われた。この時の東西横綱は貴乃花と曙。日米出身の両者がこの場所で鎮魂の土俵入りをすることは意義深いものだった。

戦没者慰霊の土俵入りのため自衛隊輸送機で硫黄島に向かった大相撲一行の力士たち 硫黄島で 1995年6月3日
戦没者慰霊の土俵入りのため自衛隊輸送機で硫黄島に向かった大相撲一行の力士たち 硫黄島で 1995年6月3日

 戦後、硫黄島は一般人の居住が認められていない。そのため民間の定期便はなく、式典へ参加する両横綱、関係者や報道陣は埼玉県にある航空自衛隊の入間基地からC―130輸送機に分乗して、前日に出発した。リクライニングしない直立した簡素なシートに向かい合わせで座った。

 硫黄島航空基地へ到着した私たちは、自衛隊のトラックの荷台に乗り込み、隊員の案内で取材を兼ねて島を巡った。岩には弾痕があり、草が生い茂る起伏にはトーチカが残されていた。地下壕(ごう)の狭い入り口の奥は暗く、別の場所では砲台から伸びた赤くさびた砲身が、青く穏やかな海に向けられたままとなっていた。

 式典の日を迎えた翌朝は、すっきりと晴れ渡っていた。2万人を超える戦死者を出したこの地で行われた鎮魂の奉納土俵入り。激しい日米の攻防があった摺鉢山を写し込むため、あえて後方から撮影をした。両横綱の大きな背中からは、平和を願う気持ちがレンズを通して伝わってきた。

1995年6月5日付「スポーツ報知」
1995年6月5日付「スポーツ報知」

 【1995年6月5日付紙面より】

 戦後50年を経て「日米戦没将兵鎮魂のための横綱奉納土俵入り」が4日、太平洋戦争の激戦地・硫黄島で行われた。午前9時から摺鉢山を望む「鎮魂の丘」で式典が開かれ、出羽海理事長(元横綱・佐田の山)らのあいさつのあと、貴乃花(22)=二子山=、曙(26)=東関=の両横綱が力強い土俵入りを披露。英霊たちに祈りをささげた。(年齢と肩書は当時)

太平洋戦争末期、日米が激しい戦闘をした硫黄島の摺鉢山を望む鎮魂の碑に向かって土俵入りをした横綱・曙。戦後50年を経て日米出身の両横綱による鎮魂土俵入りが実現した(カメラ・杉山 彰一)
戦没者慰霊の土俵入りのため自衛隊輸送機で硫黄島に向かった大相撲一行の力士たち 硫黄島で 1995年6月3日
1995年6月5日付「スポーツ報知」
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