甲子園暑に呼ばれ、事情聴取された長田幸雄さんとの蹴り合い…阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<35>

スポーツ報知
1962年9月13日付「報知新聞」には「安藤をける長田」という説明の写真が掲載されている

 私は少年時代を茨城県土浦市で過ごしました。商社に勤めていた父親は転勤が多く、私が生まれたのは西宮市。兄は仙台、姉妹は東京で生まれています。

 前回にも書きましたが、昔から「水戸の三ぽい」と言われ、「怒りっぽい」のが茨城県民に共通する性格のようです。そんな気質が受け継がれたのか、小学生時代から少々けんかっ早かったかもしれません。

 もちろん、いじめをしたことはありません。もっぱら、いじめっ子にやめるように言ったり、けんかをしている子の仲裁をしていました。でも、時にはミイラ取りがミイラになります。学校の裏山でけんかをしているというので仲裁に行ったのに、なぜか彼らと大げんかになったこともありました。中学も高学年になると、手を出すけんかはしなくなりましたけどね。

 しかし、プロ野球選手になってグラウンドに立つと、生来の気質が顔を出します。忘れもしません。1962年9月12日の大洋戦(甲子園)です。延長11回。三塁ベース上で小競り合いが始まりました。

 実はその6日前、練習中に三塁手の三宅秀史さんがキャッチボールのボールを左目に当てて離脱。私はショートから三塁にコンバートされ、12日の試合は三塁でスタメン出場して2試合目でした。

 0―0の11回に大洋が4点を奪って試合がほぼ決まった後でした。右中間を抜く安打を打った長田幸雄選手が二塁を回って猛然と三塁へ走ります。私は二塁・鎌田実さんから中継されたボールを取り、長田選手にタッチに行こうとしました。が、三塁ベース上で滑り込んだ長田選手の足と私の足が交錯しかけました。

 井筒三塁塁審の判定は「セーフ」。しかし、次の瞬間「ブロックするな」と長田選手が私に向かって蹴りを入れてきました。私は送球が来た方向に体を持って行っただけなのですが、長田選手にはそれが走塁の邪魔をしたように映ったようです。2人の距離が離れていたので蹴りは当たらなかったのですが、蹴ったのを見た私はついカッとなって、蹴り返しました。残念ながら、これも当たりませんでした。2人とも足が短くて(笑い)、蹴りは不発だったのです。

 しかし、これを見ていた両軍のベンチから選手が飛び出して一触即発ムード。さらにスタンドのファンが騒ぎ始めました。実は、その4日前、藤本定義監督が審判を突き飛ばして退場になっていました。阪神ファンは「こづいただけで退場なのに、蹴っても退場にならないのはおかしい」と怒ります。スタンドから空き缶や座布団が投げられるわ、ファンがグラウンドに降りるわで収拾がつかなくなりました。

 甲子園暑の警官、警備員が騒ぐファンを取り押さえました。4人が公務執行妨害で検挙されたと、当時のスポーツ紙は伝えています。大洋の選手はバックスクリーン下の通路から呼んであったタクシーに乗り込んで宿舎に帰ったのですが、その後も騒動は続きました。過激な阪神ファンが球場近くにある大洋の宿舎を取り囲んで「長田を出せ」と騒いだらしいのです。

 トラブルの翌日、私と長田選手は早朝から甲子園暑に呼ばれ、事情聴取を受けました。騒ぎの発端を作った張本人ということでした。甲子園暑の署長は当時「足が当たっていないから暴行罪は適用出来ないが、今後野球の試合でも選手の間で暴行、傷害の事実があれば検挙すると警告する」という談話を残しています。とんだ騒動に巻き込まれたものです。警察で事情聴取されるなんて「二度とご免」と思いました。

 しかし、それから20年後。球史に残る“事件”が起きて、2度目の事情聴取を受けることになるとは、誰が想像できたでしょう。

 (スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。83歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は7月1日正午配信予定。

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