海援隊50周年 名曲誕生秘話「俺たちはフォークだ!」ニューミュージックへの対抗心は「贈る言葉」歌詞にも

スポーツ報知
50周年を迎える海援隊(左から)千葉和臣、武田鉄矢、中牟田俊男

 3人組フォークグループの海援隊が10月にデビュー50周年を迎える。1972年にアルバム「海援隊がゆく」でデビューし、現在もオリジナルメンバーで活動中。半世紀に及ぶ音楽活動を振り返り、代表曲「母に捧げるバラード」、ボーカル・武田鉄矢(73)の主演ドラマ「3年B組金八先生」の主題歌「贈る言葉」の秘話を披露。今後のビジョンについても語った。(加茂 伸太郎)

 デビュー50周年には格別の思いがある。武田は「自分の青春と人生を懸けてきたフォークソング。この先、何があっても『海援隊』と『フォークソング』だけは、離さずに持っていく」と自負をのぞかせた。

 苦楽を共にしてきた家族同然の仲間。見えない絆で強固に結ばれている。千葉和臣(70)は「同じ世代の九州出身のグループやバンドもいるけど、オリジナルメンバーでやっているのは俺たちだけ。それだけでも尊い」。中牟田俊男(72)も「何でこの2人だったか、と言われても理由は分からない。(運命的な出会い?)もう、それしか考えられないね」と笑った。

 海援隊はデビュー翌年の73年、「母に捧げるバラード」がヒットし人気を得た。武田の母親イクさん(享年78)を歌った楽曲。もともとはアルバム「望郷篇」の収録曲だったが、その後、シングルカットされた。実は収録曲数が1曲足りず“穴埋め”のため、即興に近い形で作られたものだった。

 武田「東京に出てきたけど、パッとしない。このまま売れないかもしれない。母親にフォークソングの詫(わ)び状を書いておこうと思ったんです。とにかくメロディーをつける時間がなくて」

 千葉「だったら講談のように語ろうと」

 武田「今も聞こえる あのおふくろの声―のところも『適当に弾けばいい』なんて言って(笑い)。たちまち出来上がった曲です」

 千葉「どこでトークが切れても、途中でアドリブが入っても大丈夫なように、順番コードにしてね」

 武田「直感だけ。その直感が時代の何かをつかんだんですよね。1968~69年に東大紛争があって、学生運動に行き詰まって、卒業せざるを得ない学生たちが里に帰る時期。そこに『おっかさんへの詫び状』が重なったみたいで」

 学園祭で歌うと、反響の大きさが手に取るように分かった。京都での出来事ははっきりと記憶している。

 武田「前列の学生さんが涙ぐんでいるんです。楽屋を出ると、出待ちの男子学生がいて『俺も九州です』『自分は大分。母親がたばこ屋をやっているんです』と。異様な何かが向かってくる感じはありましたね」

 有線では絶えず曲が流れ、渋谷の街を歩けば、女性ファンから指さされた。ガラガラのコンサート会場も満員になり、景色は一変。NHK紅白歌合戦に初出場した。

 武田「これで食っていけるぞ、(同郷・福岡出身で)ライバルの井上陽水さん、チューリップに追いついたぞって。でも、一瞬気を抜いたら、お客さんが入らね~、入らね~(笑い)。7、8か月過ぎると、真っ逆さま。冬の時代です」

 1年もたたないうちに味わった天国と地獄。武田は「生き延びるためなら何でもやる」と決心。映画「幸福の黄色いハンカチ」(77年、山田洋次監督)の出演をきっかけに、俳優業に活路を見いだす。所属事務所も移籍し、崖っぷちの中で「あんたが大将」を制作。首の皮一枚つながった。

 武田「なぜあの歌を作ったかといえば、俺たちはしょせん脇役、あんたが主役。ニューミュージックへの当て付けなんです。あんたたちが時代を席巻し、我々は駆逐されるだろうって。やけくそでしたね(笑い)」

 79年、武田の元にTBSから「3年B組金八先生」の出演依頼が届く。グループの転機となる出来事。主題歌の依頼もされ、「贈る言葉」が生まれる。卒業式の定番ソングとして愛されたが、武田が好きだった女性にフラれ、その時の思いを歌にした失恋ソングでもある。だが、そこにもニューミュージックへの対抗心が含まれていた。

 武田「求めないで 優しさなんか 臆病者の 言いわけだから―と詞を書いたんですが、『優しさに包まれ』『優しさにあふれ』というニューミュージックのキャッチコピーに、“俺たちはフォークだ!”と主張したかったんでしょうね」

 千葉「本当は、このために作ったメロディーじゃなかった。前半だけできていて、それを聴いた(当時の所属レコード会社)ポリドールのディレクターが『このメロディー、主題歌に良くないか?』って。そこに武田さんが詞を書いたんです」

 海援隊は82年に一度、解散。94年に再結成するが、この間、何度か一夜限りの復活をしており、3人にとっては必然の流れだった。

 武田「左に中牟田、右に千葉というのが落ち着くんですわ。後ろのバンドメンバーが『もう3人でやれば』と言うぐらい、2人が演奏するとバンドがいらなくなる。バンドの音じゃない方が不思議と伝わるんです」

 中牟田「『辞める』という選択肢もあったけど、もう少し頑張ろうの繰り返しでここまで来た。音楽が好きなんだなと最近、改めて思う。辞めなくて良かったです」

 観客が100人でも、10人であっても、必要とされる場所に足を運び、ステージに立ち続ける。原点はデビュー直後、渋谷屋外の小さな一角で行った初キャンペーンにある。

 武田「反対側でビル工事をやっていたけど、工事が全部ストップしましたから。溶接のお兄ちゃんたちが手を止め、足をブラブラさせながら拍手してくれた。最低限の音だけで、一体感が生まれて。フォークを始めた理由はそういったところにある気がしますね」

 野外コンサート出演時、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを待つファンから瓶を投げつけられたこともあったが、今では懐かしい思い出だ。

 千葉「ギターを壊しちゃいけないから。僕と中牟田さんはスピーカーの後ろにギターマイクを持っていき、武田さんは伏せたまま『海援隊で~す』って歌い始める(笑い)」

 武田「どんな場所でもやってみせる、瓶を投げたヤツの琴線に触れさせるっていうガッツですよね。当時と状況は違うけど、ここから先の3人の旅も目指すのはそこでしょうね」

 武田は「我々は小さい会場、そこが主戦場」と言い切る。「1万人の会場で1回やるなら、1000人の会場で10回やりたい。3人で心がけているのは、1万人に提供する迫力あるステージを、500人の前でやろうということです」

 コロナ禍の2年間は観客の前で歌えない、自由にライブができないといったもどかしい経験もした。

 中牟田「ライブが、いかに僕たちの薬になっているかが分かりましたね」

 武田「ライブを取り上げられると、身の置き場所がない。『生きている』という言葉と同意義ですけど、死んだも同然。ライブのありがたみを感じました」

 千葉「武田さんが詞を書き続け、僕と中牟田さんが曲をつける。全てはお客さんに新しい曲を聴かせたい、というステージのためなんです。そのスタンスは変わらない。海援隊はそういうグループなんです」

 ○…海援隊は、7月19日に川崎市のクラブチッタで鳥羽一郎(70)とジョイントコンサート(後6時)を開催する。武田が、鳥羽のデビュー40周年記念曲「一本道の唄」(22年1月)を作詞した縁で実現(作曲は鳥羽の長男で歌手の木村竜蔵)。夢の一夜になりそうだ。

 ◆海援隊(かいえんたい)1971年結成。72年活動拠点の地元・福岡から上京しデビュー。82年解散、それぞれソロ活動を開始。武田は映画やドラマ、著書など多方面にわたって活躍。中牟田、千葉はライブをはじめ、作家活動や楽曲プロデュースを行う。94年再結成し、ツアー再開。NHK紅白歌合戦3回出場。武田と中牟田は高校の同級生。

 ▼武田 鉄矢(たけだ・てつや)1949年4月11日、福岡県出身。73歳。

 ▼中牟田 俊男(なかむた・としお)1949年7月21日、福岡県出身。72歳。

 ▼千葉 和臣(ちば・かずおみ)1951年12月24日、東京都出身。70歳。

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