三原じゅん子氏「誰かのために」がん患者の支援へ闘い続ける、08年子宮頸がんで摘出出術

スポーツ報知
「これからもがん患者の支援を続けていきたい」と前を見据えた三原じゅん子参院議員(カメラ・宮崎 亮太)

 三原じゅん子参院議員(57)は、女優として活動していた2008年、人間ドックで子宮頸(けい)がんが見つかり、子宮摘出の手術を受けた。その後、がん患者の支援のために一念発起し、政治の世界へ。議員活動を続けながら、定期検査を受ける日々を送ってきた。手術から5年が経過し、症状が見られなくなる「寛解」から9年たった今も「誰かのために」という変わらない思いがあるという。(久保 阿礼、坂口 愛澄)

 女優として活動していた2008年、44歳の時だった。何げない気持ちで、友人と一緒に人間ドックを受診した。しばらくして、病院から電話があった。「要精密検査です」。告げられたのは、がんの一歩手前の状態を指す「高度異形成」だったが、精密検査を繰り返すたびに、結果は悪くなっていった。

 最終的な診断は「子宮頸部腺がん」。30代で卵巣嚢腫(のうしゅ)となり、片方の卵巣を摘出。2度の流産も経験していたが、さらに試練が与えられた。医師から子宮、子宮周囲の卵巣、リンパ節を摘出すると告げられた。「当時は、がんをカミングアウトする時代ではなかった。がんであることが世間にバレると仕事ができなくなるような社会でした。だから『隠したい』『仕事を続けたい』って」

 リンパ節を切除すると、後遺症が出る可能性もあった。「リンパ浮腫という後遺症があって、足が3倍も太くなったり、お手洗いのコントロールができなくなるとか、とてもとても女性としては苦しいものでした。『三原じゅん子』として生きてきて『三原じゅん子』でなくなるかもしれない。どう生きていけばいいのかなって」。セカンド、サードオピニオンを求めた。方針は変わらず、「生きているだけでもありがたいと思ってください」と告げられた。

 だが、ようやくたどりついた4人目の医師の方針に光明が見えた。「役者さんとしての活動に極力影響が出ないようにしましょう」。卵巣とリンパ節を残し、子宮を摘出する手術を受けることになった。

 7歳の時に劇団に入り、芸能活動を始めた。両親と3つ上の兄の4人家族は決して裕福ではなかったという。借金の取り立てが自宅に押しかけ、母が毅然(きぜん)と対応していたことも覚えている。

 人気が急上昇したのは1979年。15歳でTBS系ドラマ「3年B組金八先生」で不良少女の「山田麗子」を演じたのがきっかけだった。乱闘場面では「顔はやばいよ。ボディーをやんな、ボディーを」と迫力ある声を披露。「決して、私のアドリブではありません(笑い)。劇団は厳しくて毎日、学校が終わると、ランドセルを放り投げて、カバンを持って、午後10時ごろに帰宅しました」

 ロックバンドを組んだり、カーレースの国際B級ライセンスを取得するなど、40代半ばまで芸能活動に没頭。そんな三原の人生は、がんとの闘いが始まったことで変わっていく。

 闘病中は、親しみを込めて「がん友」と呼ぶ、かけがえのない仲間に出会った。「幅広い年代の患者さんにお会いして、小児がんの親御さんとも親しくさせてもらった。仲間たちの思いの強さを感じました。いろいろ話を聞いていくと、日本のがん対策は結構、遅れているんだな、と」

 同時に病床では「一回、リセットできたような気持ち」になった。次に考えたのは、誰かのために生きるということ。母は脳梗塞(こうそく)で倒れた父を介護しながら、毎日のように見舞ってくれた。「がん友」もいた。「これからの人生は今までと違う。ワガママに生きてきたけど、これからは人のために生きる生き方をしたい」。三原が選んだのは、政治の力で自分と同じくがんと闘う人たちの助けとなることだった。

 2010年に女優引退を表明し、参院選の比例代表に自民党の公認候補として立候補した。がん患者への支援拡充などを公約の中心に据え、支持を訴えた。17日間の選挙戦で約30都道府県を回り、10万人を目標としていた握手の数は、最終的には15万人超に。食事の時間すら惜しみ、サプリメントで栄養を取ったが、体重は5キロ減った。当選確実の報道があったのは、日付が変わった午前3時だった。

 議員になってからも、悲しい別れを経験した。レーシングドライバーとして活動していた時に、スタッフとして支えてくれた同い年の親友が同じがんで闘病していた。「抗がん剤の効きが悪いとか相談されたり、病院を紹介したりして。でも、なかなかうまくいかなかった。議員になってからも自分の方が大変なのに、いつも私の心配をしてくれて。彼女は亡くなりました…。とてもきつかったです」。その時、三原の目が潤んだように見えた。

 厚生労働省は4月から子宮頸がんを予防する「HPV(ヒトパピローマウイルス)ワクチン」の積極的勧奨を再開した。副反応や後遺症などへの懸念から約8年間勧奨が中断され、先進国では異例の低接種率だったが、菅義偉内閣で厚労副大臣だった三原は「最後は政治判断しかない」と積極的に動いた。

 それは、三原自身が予防の重要性を誰よりも感じていたからだ。「ワクチンを打って、定期的に検診しないと、細胞に入り込んだ浸潤がんは見つかりにくい。世界では、HPVワクチンは新型コロナワクチンよりも奪い合いです。国内に輸入するのも大変ですね」

 夏には3回目の選挙を迎える。現在は野田聖子内閣府特命担当相(61)の補佐官を務めており、街頭に出る時間は限られる。「厳しいです。本当に厳しい。でも、選挙に勝たないと、闘えませんから」

 「ブレないこと」を今後も貫きたいと語る。「最初の選挙は自民党が野党の時でした。何か月も公認がいただけなくて。でも、そこは曲げられなかった。守りたいんです、誰かを。政治ってそのためにあります。目の前にいる苦しんでいる人を助けるのが政治です。迷ったり、ブレてはいられないです」=敬称略=

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