日本代表監督で84年ロス五輪金メダルの松永怜一さん死去 法大では田淵・山本・富田の三羽ガラスで黄金期

スポーツ報知
死去した松永怜一氏

 1984年ロサンゼルス五輪の公開競技だった野球で日本代表を監督として金メダルに導いた松永怜一(まつなが・れいいち)さんが12日、老衰のため神奈川・横浜市内の病院で死去した。90歳だった。65年に母校・法大の監督に就任した際には、6度の東京六大学リーグ優勝を達成。2007年に特別表彰で野球殿堂入りを果たした。後日、家族葬を行う。ロス五輪メンバーでスポーツ報知評論家の宮本和知氏(58)が松永さんを悼んだ。

 日本のアマチュア球界に多大な功績を残した松永さんが亡くなった。

 八幡高で内野手として活躍し、法大では1年春からスタメンでプレー。しかし、腰を痛めて4年時はリーグ戦への出場ができなくなり、卒業後は高校野球の指導者としての道を選んだ。

 65年に母校・法大の監督になると、いきなり春季リーグ戦で優勝。その後、田淵幸一(元ダイエー監督)、山本浩二(元広島監督)、富田勝(元南海)の“三羽ガラス”や、東京六大学リーグの最多勝記録(48勝)を持つ山中正竹らを育て、計12シーズンで6度優勝という黄金時代を築き上げた。

 山本は「奇跡の抜てき」といわれた。合宿にも入れない“その他大勢組”で球拾いをしていたが、打力に目を付けて投手から転向させた。甲子園経験者が多い中、「グラウンドでの姿が全て。どんな経験があろうともだ」と自分の目で見て発掘し、育てて送り出すことが生きがいだった。

 名将の名前を高めたのが公開競技で野球が採用されたロサンゼルス五輪だった。日本は前年の地区予選3位で出場権を逃したが、モスクワ五輪の米国などのボイコットの意趣返しでロス五輪は今度はソ連を始めキューバがボイコット。6か国で行う予定が8か国対抗の新方式になった。

 これを受け急遽の出場決定となったが、日程が都市対抗と重なることもあって選手選考が難航。松永氏は社会人、学生の約50人の候補から社会人13人、学生7人と平均年齢22・5歳のメンバーを選出。従来のベテラン中心(平均年齢27歳)から一転、若手中心のメンバーをそろえた。

 若いメンバーがそろったことで、改めて合宿で基本を叩き込みロサンゼルスに向かった。公開競技だったこともあって注目度は低かったが、試合を重ねるごとに力をつけ、決勝に進出。超満員のドジャー・スタジアムのほとんどが米国応援の中、快勝。松永氏は「日本の国旗がロスの夜空に静かに揚がった時は、もう正式種目と少しも変わらぬ感激と誇りがあった」と語っている。同年、国際アマチュア野球協会から、最優秀監督賞に選ばれた。

 2007年には特別表彰として野球殿堂入りを果たした。高校、大学、社会人、そして日本代表でも監督を務めた名将は「報われた。殿堂入りが、アマ指導者の励みになればいい」と話した。まさしく、アマチュア野球に尽くした人生だった。

 ◆ロサンゼルス五輪VTR 日本は、世界最強と言われながら東西冷戦の影響でボイコットしたキューバの“穴埋め”として出場。準備期間は1か月余りだったが、予選リーグを2勝1敗で突破した。準決勝の台湾戦は、1―1の延長10回裏に元ヤクルトの荒井幸雄(日本石油)がサヨナラ打。ドジャー・スタジアムに超満員5万5235人が詰めかけた米国との決勝は、0―1の4回に荒井と元ヤクルト・広沢克己(明大)の連続タイムリーで逆転。その後も得点を重ねて金メダルを獲得した。

 ◆松永 怜一(まつなが・れいいち)1931年11月3日、福岡県生まれ。八幡高、法大では内野手。法政一高(現法政高)、堀越高(ともに東京)の監督を経て65年に法大監督に就任し、東京六大学リーグ優勝6度。71年から社会人の住友金属を率い、日本選手権で優勝2度。アマチュア球界で要職に就き、日本オリンピック委員会(JOC)で選手強化本部長などを務める。2007年に野球殿堂入り。

野球

NEWS読売・報知 モバイルGIANTS 個人向け写真販売 ボーイズリーグ写真 法人向け紙面・写真使用申請
×