ボブ・ホーナー、「ワニ男」パリッシュらヤクルトの助っ人との思い出……阪神入団60年・安藤統男の球界見聞録<33>

スポーツ報知
ヤクルトのボブ・ホーナー(左)と阪神のランディ・バース(1987年5月5日、神宮球場で)

 前回と前々回は阪神でユニホームを着ていた時に交流があった外国人選手のことを書きました。今回はヤクルトのコーチ時代に思い出を残してくれた助っ人たちの話を―。

 ボブ・ホーナー。ノーステップで足踏みするような感じのスイングを思い出します。ステップをしないからポイントが近く、スイングスピードも速い。変化球にも対応出来るわけです。シーズン途中の加入で、93試合の出場ながら31ホーマー。フルシーズンだったらどれだけ打ったでしょうか。

 「バリバリのメジャーリーガー」の肩書きでやってきた助っ人に、若手選手は一目も二目も置いていました。ある日、ホーナーがロッカーの椅子に座って目を閉じているのを見た広沢克実や池山隆寛がひそひそ話。「さすが、大リーガーは違うな」「試合を想定しながらめい想しているんだな」「あれがメジャーのスタイルなのか」と口々に言い合っていました。

 真相は…。ホーナーは居眠りをしていただけです。彼の放つオーラが若い選手に「ただの居眠り」を「めい想」と勘違いさせたのです。ホーナーは1年しかいなかったのですが、何年もプレーしたような存在感を残しました。

 「デーやん」と「パーやん」も忘れられません。ダグ・デシンセイとラリー・パリッシュです。関根潤三監督が呼び始めた愛称で、我々もいつの間にかそう呼ぶようになりました。デシンセイは1年だけの在籍でしたが、入団した88年は東京ドームが開場した年で、彼が開幕戦で打ったホームランは東京ドームの公式戦第1号になりました。長嶋一茂が入った年でもあり、デシンセイの守りの時の構え方や足の運び方を手本にして一茂に教えたこともありました。

 パリッシュと言えば「ワニ男」。ワニ肉が好物ということで話題になりました。ワニの肉は私も食べたことがありますが、鶏肉の脂を抜いた、ささみのような淡泊な味でした。大阪・北新地にワニ肉を食べさせる店があり、パリッシュを招待したこともありました。

 パリッシュは来日した89年、いきなり42ホーマーを打って本塁打王、ベストナインにも輝きました。ホーナーが「休みたがり」だったのに対し、パリッシュは「出たがり」。少々ケガをしていても「出る」。調子が悪くても「出る」。関根監督は相性が悪い投手が先発してくる時はスタメンから外したいのですが、パリッシュは「出たい願望」が強い。「アンちゃん、今日こそパーやんを外したいなあ。外したらヤツにぶっ飛ばされるかなあ」と関根監督は苦笑していました。

 89年9月24日の巨人戦。先発は斎藤雅樹。1試合4打席連続三振したこともある、パリッシュが大の苦手にする投手です。そこで、私が彼にスタメン落ちを告げる役目を仰せ付かりました。通訳を通じて何とか納得させましたが「絶対に休みたくない」という精神は、本物のメジャーリーガーでしたね。

 ところで、彼を納得させた私の殺し文句は「その代わり、斎藤が交代したらすぐにキミを出すから」でした。その試合は川崎憲次郎が巨人打線を2安打に抑え、プロ初完封を飾った試合です。6回に杉浦享の適時打で挙げた1点を川崎が守り切りました。斎藤は7回に交代。投手が宮本和知に代わると、8回の攻撃で関根監督は「待ってました」とばかりに、ヒーローの杉浦の代打にパリッシュを起用しました。関根監督に仕えたヤクルトでの3年間。助っ人選手との楽しい思い出です。(スポーツ報知評論家)

 ◆安藤 統男(本名は統夫)(あんどう・もとお)1939年4月8日、兵庫県西宮市生まれ。83歳。父・俊造さんの実家がある茨城県土浦市で学生時代を送り、土浦一高3年夏には甲子園大会出場。慶大では1年春からレギュラー、4年時には主将を務めた。62年に阪神に入団。俊足、巧打の頭脳的プレーヤーとして活躍。70年にはセ・リーグ打率2位の好成績を残しベストナインに輝いた。73年に主将を務めたのを最後に現役を引退。翌年から守備、走塁コーチ、2軍監督などを歴任した後、82年から3年間、1軍監督を務めた。2年間評論家生活の後、87年から3年間はヤクルト・関根潤三監督の元で作戦コーチを務めた。その後、現在に至るまでスポーツ報知評論家。

 ※毎月1・15日正午に更新。次回は6月1日正午配信予定。

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