◆北京五輪 ▽フィギュアスケート(10日・首都体育館)
羽生結弦(27)=ANA=のフリー「天と地と」の編曲を務めたのは、音響デザイナーの矢野桂一さん(64)。2シーズン連続で使用した名プログラム完成の過程と、羽生の音に対するこだわりについて聞いた。(取材、構成・高木 恵)
羽生から矢野さんの元に、フリープログラムで大河ドラマ「天と地と」と「新・平家物語」を使いたいというリクエストが届いたのは、2020年5月だった。
「『新・平家物語』の琴の流れるような音もすごく彼に似合いそうだなと。最初はイメージは琴なのかなと思って、琴を最初にもってきたんです」
「新・平家物語」から始まり、琵琶の音色が特徴的な「天と地と」につなぐパターンを作成したところ、羽生から「『天と地と』から始めたいです」と連絡があった。2週間で18バージョンを作成。「天と地と」「新・平家物語」「天と地と」とつなぐ完成形が誕生した。
耳が良く、音楽に精通している羽生から細部にわたって提案を受けた。「新・平家物語」から「天と地と」に戻る前後の2分40秒あたりから琴のかき鳴らしがある。「そこに何か音が欲しいんですけど何か良い案はありますか?」。「雲をつかむような感じだった」という矢野さんは2日間悩んだ末に「ハープの音で、その部分にハマりそうなメロディーを作り、重ねました」。見せ場の一つ、4回転トウループ―オイラー―3回転サルコーの3連続を跳ぶ手前のところだ。
天に向かって両手を突き上げるフィニッシュシーン。琵琶の音色が徐々に強くなり、最後にバーンと鳴る。当初は琵琶の音はなく、静かなエンディングだった。
「シューッて終わる感じだったんですけど、琵琶が響いて終わりたいという彼の要望があって。僕は彼がやりたいことをお手伝いするだけ。少しでも彼の考えているイメージに近づけたいと思ってやっています」
3分20秒あたりからのクライマックスには「金物系が欲しい」。平昌五輪シーズンの「SEIMEI」でも使用した「合わせシンバル」をチョイスし、演目に厚みを持たせた。3分26秒の「ジャーン」でエッジを深く倒し、非常に低い姿勢で滑るハイドロブレーディング、3分34秒の「ジャーン」はバレエジャンプ。さらに盛り上がりをつけるために「NHKのど自慢」でおなじみのチューブラベルで「カーン、カカカン、カカカーン」と華やかさを添えた。1分35秒あたり、ステップシークエンスの途中で静止する場面では「何か低音の音」。矢野さんは太鼓の音を入れた。
羽生との作品作りは楽しくもあり、闘いでもある。そこにいっさいの妥協はない。「羽生くんの希望はいつも的確。自分の作品として滑ろうという思いが伝わってくる」。時には「僕、かなり無理なこと言っていると思うんですけど」と相談を受けることもあるが「プロとして『できない』とは言いたくない。難題をぶつけられると燃えるんです」と笑った。
20年の全日本選手権で「天と地と」を初めて目にした。
「こんなにできあがっているんだ、と言葉がなかったです。自分をどう見せるか、どう演出するかというのが、彼の中でできあがっている。考えて動いていない。音とともに動いている」
音のプロをも、うならせるほどの表現力。すべての要素が曲に溶け込んでいた。
「ほんのちょっとしたところにも、一つ振りを入れるとか、こだわりがある。すごいなと思います」
フィギュアスケートの音響にかかわって35年。以前は音楽や編集が若干、雑に思える時代があった。
「僕らからしたら音楽と合っていないとか、もうちょっと音楽も注目してほしいなという思いもあったんですよ。日本のスケーターの音楽環境を良くできればなというのが僕の夢でした」
矢野さんは羽生に感謝する。
「羽生選手が僕が思っていたことを実現してくれた。音楽表現もそうだし、音楽をすごく大切に思ってくれているという部分もそう。自分の個性を生かし、自分がこの音楽を演じるという意思。羽生選手が築き上げたものが、文化として残っていけばいいなと思います」
◆「天と地と」 1969(昭和44)年に放送されたNHKの大河ドラマ。川中島で戦った上杉謙信(石坂浩二)と武田信玄(高橋幸治)の両名将の対比を中心に、戦国の動乱の時代を背景にした人間模様を描いた。原作は海音寺潮五郎氏、脚本は中井多津夫氏と杉山義法氏、音楽は冨田勲氏が担当した。
◆矢野 桂一(やの・けいいち)1957年4月8日、福岡県北九州市生まれ。64歳。音響デザイナー・音楽編集プログラマー。75年から音響技術士として活動。85年からフィギュアスケートに携わっている。