日大三島がセンバツ高校野球大会(3月18日開幕、甲子園)に出場する。野球部、選手を紹介する連載の第2回は、20年春に就任した永田裕治監督(58)だ。報徳学園(兵庫)で全国制覇を達成し、U―18日本代表を率いた経験も持つ名将は、厳しさと温かさが同居する独特の指導法で甲子園出場に導いた。(取材・構成=武藤瑞基)
ギャップが自分を変えた。20年4月、永田監督は日大三島に赴任した。約2か月のコロナ休校を経て6月から本格的な練習を開始。だが、これまで報徳学園で見てきた選手との大きな違いに驚いた。「みんなおとなしい」。俺が、俺がと前に出てくる人間がいない。集合写真の撮影でさえ、前列に並ぶのを「どうぞ、どうぞ」と譲り合っている姿にあ然とした。
「報徳の時はガンガン、ビシビシやっていた」。日大三島は土曜日の午前中も授業があり、平日も午後8時が完全下校。限られた時間と生徒の気質を考え、「指導方針を変えた」という。校長やOB会長にも伝え、頭髪の丸刈りを辞めた。「もうそんな時代じゃない。短髪であれば気にしない。(野球を)一生懸命やってくれたらそれでいい」と柔軟な方針を打ち出した。
常に頭にあるのは「選手の気力、能力を上げる。それにはどうしたらいいか」。練習中は時に“鬼”となる。冬場に取り組むのは連続ノーエラーノック。同点の9回2死三塁と仮定し、簡単に捕球できる緩い打球をノーミスで10球連続処理できたら成功。エラーや悪送球があると、腰を落とした状態で捕球動作を繰り返しながらダイヤモンドを一周させる“罰走”を命じる。「重圧がかかった状態でできるか。報徳の時は27球連続だった」。あまりの厳しさで足元がふらつきだしても妥協はしない。ミスした仲間に「ドンマイ」と言う選手には「その一球で試合が終わるぞ!」と雷を落とす。
反対に公式戦ではリラックスムードをつくり出す。吉川京祐内野手(2年)は試合中は「エラーしてもいいから思い切りやれと言ってもらえる。緊張してても一言で楽になる」と明かす。永田監督は「試合まで持って行くのが仕事。試合になったら主役は選手」と言い切る。
昨秋東部地区初戦は富士宮北に5―3で辛勝。「死にかけとった」チームは試合毎に力を付け、気づけば東海王者に育っていた。「地区が始まる時、どの新聞の展望にも“日大三島”がなくて悔しくてね。だから何よりうれしい」とちゃめっ気たっぷりに笑う。異なるユニホームで5年ぶりに舞い戻った聖地。信じる選手と共に勝負する。
◆永田裕治(ながた・ゆうじ)1963年10月18日、兵庫・西宮市生まれ。58歳。報徳学園では金村義明(元近鉄)と同期の右翼手で、81年夏に甲子園優勝。中京大卒業後、桜宮(大阪)コーチ、報徳学園コーチを経て94年4月に監督就任。02年にセンバツ優勝。監督として甲子園は春11度、夏7度出場し通算23勝17敗。20年4月に日大三島監督に就任。保健体育科教諭。