モーグル・星野純子の恩師がエール「笑顔あふれる感じなら、順位は何位でもいい」…北京へ届け

スポーツ報知
チームリステルの高野弥寸志監督

 北京冬季五輪は4日の開会式に先駆けて、2日から一部競技が始まった。スポーツ報知では、東北にゆかりのある選手の関係者を取材。現地で奮闘する選手の素顔に迫る企画を随時掲載していく。第1回はフリースタイルスキー・モーグルの星野純子(32)=リステル=の恩師で「チームリステル」監督の高野弥寸志(やすし)氏(59)。(取材・構成=岩崎 敦)

 1月15日午前10時ごろ、高野さんの携帯が鳴った。W杯を転戦して米国にいる星野からだった。帰国のあいさつかと思い「おかえり」と声をかけたが、予想外の答えが返ってきた。

 「まだ『おかえり』じゃないんです。高野さん、オリンピック決まりました!」

 年明けの時点では五輪選考の圏外にいたが、1月13日の第8戦で4位、14日の第9戦で11位に入り、大逆転で2大会ぶり2度目の五輪切符をつかんだ。

 「本当にうれしかったですね。五輪のことを気にしてないといえばウソになりますが、行っても行かなくても、彼女にとってこの4年がムダになるとは思っていなかったですから」

 2人の出会いは約15年前。全日本チームのヘッドコーチをしていた高野さんは、ある大会で礼儀正しくあいさつをしてきた高校生の星野に好印象を持った。練習のため毎週末、新潟から片道4時間かけて福島・猪苗代町のリステルスキーファンタジアに通った縁で、ホテルリステル猪苗代に就職。14年ソチ五輪に出場するなど順調に成長を続けていたが、16年のW杯公式練習で左膝前十字じん帯断裂の大けがに見舞われた。

 「泣きながら電話がかかってきました。『けがしちゃった』と。精神的にも技術的にもピークだった時期の負傷でした」

 猪苗代と東京を何度も往復しながら地道なリハビリを続けたが、負傷前の状態に戻るには2年を要した。出場権を逃した18年平昌五輪の後、星野は言った。

 コブ斜面のターンやエアの技術を競うモーグルは、膝や腰に大きな負担がかかる。夏場は体づくりをしながら雪を求めて南半球に渡るなど、1年を通じてまとまったオフはない。29歳からの4年間は長い道のりだったが、徐々に持ち味の高いエアが戻ってきた。ホテルの社員として、練習の合間にはプールやジムの受付としても働いた。

 「心配をかけたくないのか、膝のことを聞いても『大丈夫です』としか言わないんです。こうだと決めたことには何があってもたどり着こうとする真っすぐな人。だから4年間、頑張れたのでしょう」

 新型コロナウイルスの影響でプレ大会が中止になり、五輪はほぼ全選手が初体験のコースに挑む。ただ2人は19、20年と五輪会場近くのスキー場で合宿を行っていた。

 「中国は人工雪なので、日本や欧米とは雪質が全く違う。五輪会場のすぐ前まで行ったこともありますし、環境や雰囲気を知っているのはアドバンテージになると思います」

 競技人生の集大成になる大会は、3日の予選から始まる。高野さんは優しいまなざしでエールを送った。

 「五輪切符をつかんだことが大成功。全部出し切って、星野純子の滑りをしてほしいと思います。笑顔あふれる感じで終わってくれれば、順位は何位でもいいんです」

 ◆星野 純子(ほしの・じゅんこ)1989年9月25日、新潟・長岡市生まれ。32歳。長岡向陵高、新潟大を経て長治観光(リステル)に所属。上村愛子に憧れてモーグルを始め、14年ソチ五輪代表選考最終戦のW杯で初の表彰台となる3位に入り五輪切符を獲得した。18―19年シーズンは自身最高のW杯総合8位。20年2月のたざわ湖W杯では5年ぶりの表彰台となる2位に入った。157センチ、52キロ。

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