震災復興に尽力した元川俣町長の古川道郎さん追悼 法大時代に箱根駅伝に出場

スポーツ報知
箱根駅伝を駆けた法大時代のアルバムを懐かしそうに見る川俣前町長の古川道郎さん

 福島・川俣町の元町長の古川道郎さんが1月26日、肺炎のため、亡くなった。77歳だった。

 古川さんは法大時代の1966年、67年、箱根駅伝に出場した。卒業後、郷里の川俣町の役場に就職。2002年に退職し、町長に初当選。4期目途中の2017年2月に健康上の理由で辞職するまで、約15年も川俣町のリーダーとして奮闘した。町長時代の2011年3月に東日本大震災が発生。福島第1原発事故によって町の一部が居住制限区域などになった。被災者に寄り添いながら、復興に尽力した。

 古川さんが町長を辞任した後、私は取材をさせてもらったことがある。故郷に対する強い思いや学生時代の箱根駅伝の思い出話などに感銘を受けた。

 ご遺族の了承を頂いたので、古川さんを追悼する記事を書かせていただく。

 古川さんと初めて会ったのは2017年2月だった。当時、健康上の理由で町長を退職したばかり。体調が上向いた時に取材のお願いをするための電話をすると「すぐに、お話できますよ」と快諾された。

 町長時代に2度、脳梗塞を発症。実際に会うまで、私も不安だったが、川俣町の自宅に招き入れてくれた古川さんは顔色が良く、滑舌もなめらかだった。「できれば町長を続けたかった」と繰り返した言葉には実感がこもっていた。

 その時、震災から6年目だった。古川さんは強い口調で語った。

 「原発事故は本来あり得ないことだし、絶対に二度とあってはならないことだ。復興はまだ半ばです」

 原発事故の影響は川俣町にも及んだ。浪江町と隣接した南東部の山木屋地区が被曝(ひばく)の脅威にさらされ、避難を余儀なくされた。そして、古川さん自身もアクシデントに見舞われた。2015年12月6日早朝のことだった。

 「前日は山木屋地区の皆さんとの懇談会があった。今後について率直に語り合い、みんなで前向きになれた日だったのに、一晩たったら私の体に異変が起きた。いつものように朝5時に起きて、日課のジョギングしようとしたら、左の靴下がうまくはけなかった。おかしい、と思っているうちに、どんどん、体が動かなくなり、救急車で運ばれました」

 診断は脳梗塞だった。そのまま約半年、入院。懸命なリハビリを経て、2016年5月に職務復帰。左半身が不自由ながらも車いすに乗って町長の責任を全うした。だが、2016年9月に役場内で再び、倒れた。

 「悔しいが、この体では町長の職務を全うできない。そう判断して辞職を決めました。本当はもっと川俣町のために働きたかった」

 2002年に初当選。以来、町民の支持を受け、4選を果たした。しかし、2017年2月6日付で任期途中で辞職。まさに倒れるまで、川俣町の先頭を走り続けた。その圧倒的な精神力は、法大時代に箱根路で培ったものだった。

 生まれも育ちも川俣町。飯坂中時代、卓球部に所属する一方で長距離走が得意だった古川少年は、町の陸上大会で優勝。川俣高に入学すると陸上一本に絞った。

 「川俣の山の中をよく走ったものです。今でいうクロスカントリー。走ることは楽しく、どんどん好きになった。6人きょうだいの長男という立場だったので高校卒業後は就職するつもりだったが、箱根駅伝への思いが諦められなかった。仕事をしながら夜学(2部)に行く、と両親を説得した。進学を支えてくれた両親や先生への感謝は忘れたことはありません」

 1963年4月。晴れて、法大の2部社会学部に入学。同時に陸上競技部の門をたたいた。

 「学費を稼ぐためにアルバイトをしなければいけなかったから、生活は大変だった。当時、日本武道館(千代田区)の前にあった東京学生会館に住んでいました。アルバイト先は築地魚河岸。朝5時から昼の12時頃まで働いた。その後、当時、法大陸上部の練習場だった元住吉(川崎市)まで行って午後2時から4時頃まで走った。午後6時から9時まで市ケ谷の校舎で授業。陸上部の合同練習がない時は皇居の周りをよく走った。今ではダメだけど、当時はお堀の内側も走れた。起伏があって、下は土。東京のど真ん中でもクロスカントリーの練習ができたんですよ」

 コツコツと練習を重ね、2年時の1965箱根駅伝では7区に選手登録された。しかし、当日変更で補欠に回った。

 「当時は車両規制がなかったから、どのチームも多くの車を出していた。補欠登録の選手は来年の勉強のために選手後方の車に乗ることができた。沿道の大観衆に奮い立った。『やっぱり走らなければダメだ。来年は絶対に走る』と心に決めました」

 そして、ついに3年時の1966年箱根駅伝で8区を駆け抜けた。区間7位と好走し、チームも9位と健闘した。4年時は最終10区を担い、やはり区間7位。チームは前年より一つ上がって8位。有終の美を飾った。

 「大声援のお陰で実力以上の走りができた。特に4年生の時、アンカーとして無事にタスキをゴールに運ぶことができた。鳥肌が立つほどの感動は今でもはっきりと覚えています。ひたすらに箱根駅伝を目指し、箱根駅伝を駆けることができた。箱根駅伝のお陰で諦めない心を学んだのです」

 古川さんの学生時代の思い出は尽きなかった。セピア色のアルバムを少し不自由な手でめくりながら「青春だった」と感慨深い表情で、つぶやいた。古川さんの生きざまに触れた取材時間は実に濃かった。

 今年の第98回箱根駅伝で、古川さんの母校、法大は10位と踏ん張り、3年ぶりにシード権を獲得した。古川さんの長男・壮一さんは「父はテレビで箱根駅伝を観戦していました。法大の選手の頑張りを喜んでいました」と話してくれた。

 法大の坪田智夫監督は「数年前に、大先輩の古川さんにお会いし、激励をいただきました。今回、応援してくれる多くの方々のお陰でシード権を取ることができました。古川さんが喜んでくれたなら、私もうれしいです」と、しみじみと話した。

 福島県は1964年東京五輪マラソン銅メダルの円谷幸吉さんをはじめ、マラソン元日本記録保持者の藤田敦史・現駒大コーチ、東京五輪1万メートル代表の相沢晃(旭化成)らを生んだ「長距離王国」だ。古川さんは川俣町長を務める一方で、福島県駅伝後援会会長としても活躍。競技の普及、発展に尽力した。

 福島・学法石川高出身で、同高で教師経験がある東洋大の酒井俊幸監督も古川さんに薫陶を受けた一人だ。「福島で指導者になった時、度々、古川さんに激励とアドバイスの言葉をいただきました。箱根駅伝を走った古川さんの言葉には説得力がありました。本当にありがとうございました」と酒井監督は深く感謝した。

 古川さんの取材から5年過ぎた今も、私は、古川さんの言葉と表情をはっきりと思い出すことができる。それほど、古川さんの言葉は熱く、深かった。

 心より、ご冥福をお祈りします。(記者コラム・竹内 達朗)

 ◆古川 道郎(ふるかわ・みちお)1944年10月28日、福島・川俣町生まれ。川俣高から本格的に陸上を始め、63年に法大入学。箱根駅伝では3年8区7位、4年10区7位。67年に卒業し、川俣町役場に就職。総務課長などを歴任。2002年に退職し、町長に初当選。4期目途中の20172月に健康上の理由で辞職。孫の道斗は現在、城西大駅伝部3年。

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